夜分すみませんと、村民が菓子折を持ってきた。高品先生へのお詫びの品だと言う。ウチの子が本当にすみませんでしたと。お身体は本当に大丈夫でしたかと。
詳しく聞くと、往診から帰ろうとした龍太郎の目の前で、子供が急に道に走り出たのだという。
突然の行動に誰かが悲鳴を上げるよりも早く、下り坂を走ってきた軽トラがブレーキを踏む音が響いた。
その時一番近くに居た龍太郎が、まるで当然のようにそちらに走り出し、迷わず道に飛び出して、子供を向こう側の畑に突き飛ばした。
車は既に止まりかけていたが、それでも龍太郎に少し当たった。
転んだ龍太郎を皆が心配したが、慌てて降りてきたトラックの運転手にも子供の親にも、龍太郎は大丈夫ですと言って苦笑するばかりだった。それよりも泣いてしまった子供の方を困ったように宥めて、泣き止むと安心したように帰って行ってしまったのだと。
龍太郎は今風呂に入ってるので出られませんが、本人に伝えておきますと伝えると、何度も感謝を述べながら村民は帰っていった。
龍太郎が風呂から上がってくるのを待って、一人は問答無用で診察室に龍太郎を追いやった。
「え!? え!? 何スか!?」
「脱げ」
「へえっ!?」
素っ頓狂な声を上げる龍太郎に、今しがた礼を言いに来た家族のことを端的に告げる。
龍太郎は納得したように頷いた。
「わざわざ申し訳ないっスねえ」
机の上の菓子折を見ながら眉を下げて笑う龍太郎に、一人は険しい顔で問い質した。
「何故言わなかった」
その間にも龍太郎の服に手をかけて強制的に脱がせる。
龍太郎はたじろぎつつ大人しく脱がされた。
「大事無かったんで……。打ち身だけっスよ。ムチ打ちの心配もありません。危ない当たり方はしてませんから……酷くなったら自分で湿布でも何でも貼ろうかなって思ってました」
背中を診察すると、確かに大事には至らない部位だったが、それなりに強い打撲の跡が見て取れた。内出血して変色している患部に眉を顰める。
「既に酷いぞ。風呂に入った時も痛んだ筈だ。医者の癖に治療拒否とはどういうつもりだ?」
「風呂に入ったら痛かったんで、こっそり湿布貰おうと思ってたらその前に先生に引き摺り込まれたんスよォ……」
情けなく肩を落とす龍太郎に素早く手当をしつつ、一人は更に追及する。
「何故コソコソする必要がある。ここは診療所だぞ」
龍太郎はばつが悪そうに頬を掻いた。
「……人に怪我を報告すんの苦手なんですよね。昔から、怪我するとオフクロからめちゃくちゃ怖い顔で怒られたし……オヤジもそういう時ばっかりうるさく言ってくるし……」
「……心配していたのだろう」
「違いますよ」
さらっと、それが事実だと確信しているような口調で否定する横顔は、奇妙に落ち着いていた。
「そういうんじゃないんです、きっと」
その凪いだ目の頑なさに、一人は目を見開いた。
暫し沈黙が落ちる。
「……手当てしてくれてありがとうございました、先生」
表情を和らげて龍太郎が礼を言った。
その顔は甘ちゃん以外の何ものでもない。心から相手の親切に感謝していた。それを与えてくれる相手の人格への手放しの信頼に満ちていた。だからこそ、ふと、どうしようもない気がした。
彼は優しい人間だ。生来からの利他心を持っている。このまま経験を積んでいけば、きっと良い医者になる。
これ以上の何を得なくても、彼はその生得を失わないだろう。
だがそれでも恐らく、何かが足りないのだ。それが何なのか分からない。ただそのせいで、彼はふとした弾みで今度は本当にその命を利他のため使い果たして、そしてそれが起こり得る可能性を誰も否定出来ないのではないかという気がした。
恵まれた場所に生まれついた筈の若き研修医から感じる、この言いようのない寄る辺なさは何だろう?
端的に言って危なっかしいのだ。足るべきものが足りていないのに完成しているような心許なさがある。だがそれが何なのか、どうすれば解消される不安なのか、一人には分からなかった。
「……身体を鍛えるか。お前の」
「え!? と、突然なんなんスか!?」
「それぐらいしか今は思い付かん」
自分には少なくともそういう不安はない。車に轢かれた所で生還する自信がある。身体が丈夫だからだ。
目に見えない精神より余程エビデンスのある方針に思った。だが龍太郎は勘弁してください、先生みたいなフィジカルには三回生まれ変わってもなれないですと断固辞退してきた。そのため一人のモヤモヤが解消されることは、残念ながら無かった。
