潤っているに越したことはない

 くすりと麻上が笑って言った。
「あら高品先生、かわいいリップクリームですね」
「へ?」
 きょとんと目を丸くして麻上を見返した龍太郎は、ちょうど唇に塗り終わったばかりのリップクリームに目を落とした。
 確かに、手の中の柔らかい黄色いパッケージには可愛らしい蜂の絵が書いてあり、かなりファンシーな仕様になっている。龍太郎は照れくさそうな顔で笑った。
「買いに行ったら無香料の隣にコレがあって、ハチミツの匂いってなんかウマそ〜って思って……」
「いいじゃないですか。最近は特に乾燥しますしね」
「そうなんスよ〜。塗らないとすぐ割れちゃうんですよね」
「割れると痛いですよねえ。でも、男の人ってリップクリーム塗ってる人少なくないですか? 女性に比べると。乾燥するのは一緒のはずなのに」
「確かに。高校時代の友達とかも皮剥けたら食うって言ってました」
「アハハ! 食べちゃうのはちょっと!」
「やっぱ、男だとちょっと恥ずかしいってのがあるんじゃないスかねえ。オレはもう習慣になっちゃってますが」
「また、高品先生ってなんか似合いますもんね。そういうカワイイ仕草が」
「ええ〜? そうスか〜?」
「アハハハ!」
 顔の前で両手を握って完璧なぶりっ子ポーズをする龍太郎に麻上は大笑いした。

 就寝前の静かな時間帯、ふと顔を上げて周囲を見渡した一人は、龍太郎の手元を見て納得したように言った。
「その匂いか」
 夜の歯磨きの後にまたリップクリームを塗っていた龍太郎は、一瞬首を傾げた後、すぐに言わんとする事に気づき笑った。
「します? ハチミツの匂い」
「する。本物の匂いかは分からんが」
「確かにちょっとわざとらしい感じの匂いっスよね」
 くんくん、と再びキャップを外して匂ってから、ふと龍太郎は一人の顔をまじまじと見た。
「先生もつけます? リップクリーム」
 差し出すが、一人は迷う素振りもなくさらりと断った。
「いや。大丈夫だ」
 選択肢すら無いようなアッサリした態度に龍太郎は目を丸くする。
「でも、ちょっと乾燥してるっぽいっスよ?」
「まあな。だが割れるまでは行かんから大丈夫だ」
「塗るだけですよ? いいですよ〜パリパリしないって」
「不要だ」
 にべもない態度に納得がいかなくなってきた。
 眉を八の字にしつつ近づいてリップクリームを差し出す。
「試すだけでも……」
「いい。匂いが甘すぎる」
 失敗した、無香料ならお試しする気にもなったのだろうか?
 何だか布教しそこねた事がやけに悔しかった。

 そしてふと魔が差した。
 もう何回かしているし、いいだろうと。

 龍太郎は出し抜けにスッと顔を寄せると、両頬を掴んでちゅう〜っと唇を合わせた。
「……!!」
 声にならない驚愕が目の前の体躯から発せられるのが分かる。

 自分の唇に塗った分を全部移すつもりで念入りに食んで、よし! という気持ちで顔を離した。
 怒っているのか呆れているのか照れているのか、いつもより眉間の皺が深まった迫力ある表情で沈黙するその人の、しかし唇は目論み通りしっとりしていたので、龍太郎は満足した。

「絶対朝起きた時とか違いますから! じゃっおやすみなさ〜い!」
「おい」
 地を這うような声で呼び止める声が聞こえたが、ここはひとまず一晩置くに限る。
 龍太郎は素早く自室へと退却した。

 次の日、おはようございま〜す、と様子を伺いつつ投げかけた朝の挨拶への返答が平常通りな様子だったので、どうやら許してくれたらしいと龍太郎は胸を撫で下ろした。
 流石に塗った感想を聞くのは恐れ多くて出来ないが、あまり怒っていない所を見るに悪くなかったのかもしれない。

 まだしばらく空気も乾燥してるんだから、先生も無香料のやつでも塗ればいいのに。
 そんなことを思いながら朝の支度を終えて、リップクリームを塗り終わりキャップをしていると、不意に顎を掬われた。
 上向かされてすぐ、唇全体を食べられるような思い切りのいいキスをされる。
「!?」
 一気に龍太郎の顔に血が上り、呆然と固まっている間に、念入りに柔らかい所を全部さらうような周到さで口づけ終えた一人は、満足気に唇を離して言った。
「確かにお前の言う通り、悪くないな。唇が乾燥していないのは」
 そう言う厚い唇は今やすっかり潤い、血色良く色づいている。

 龍太郎は赤い顔で、今は逆に薄くしか油分の残らない自分の唇をワナワナと押さえてうめいた。
「リ……リップクリーム泥棒……」
 一人は鼻で笑って、軽く龍太郎の頭をチョップして言った。
「先に盗んだのはどっちだ」