「龍太郎」
診療所を開ける前の朝方、白衣を着て診察室に入ってきた龍太郎を手招きすると、情けなく眉を八の字にして龍太郎がすごすご近付いてきた。
「ハイ……」
「この症状とレントゲンから患者の病名を考えてみろ」
「ハイィ」
今日はこの日か~~という心の声が今にも聞こえてきそうな顔で、龍太郎は結果を隠されたカルテを食い入るように眺め始めた。
龍太郎が来てから、この朝の抜き打ちテストは不定期に開催されている。毎朝あるというわけでもないため警戒心が増しているのか、朝診療所に入ってくる龍太郎の足取りが心なしか忍び足になってきていた。刺激しなければ声を掛けられないとでも思っているのだろうか。
「ええと、まずここの症状は出ていないから……」
声に出してゆっくりと順番に考えを整理していく。一人はそれを腕組みしてじっと聞いている。
龍太郎の得難い資質として、分からないことがあっても全く申し訳なさそうな顔をしないという所がある。今まで会った事のある大体の医者や医学生は、自身の知識不足や見過ごしを突き付けられると狼狽し、萎縮し、ともすれば分かっていないことを隠そうとする傾向を持ってしまうことも少なくなかった。龍太郎にはそういったことが一切ない。どこまで分かっていて、どこで躓いたのかをハッキリと表に出す。そこに焦りはあるが、悔しさはない。自己の未熟さに対してある程度の開き直りがあり、それを開陳することに躊躇いがないのだ。
それを緊張感のなさと取る見方もあるだろうし、事実そうであるとも思うが、結局そうした緊張は優れた医師足らんとする自分のための緊張に過ぎない。
そうした姿勢が必要不可欠だと、一人は考えていない。患者を前にした時に責任感を持てればよい。そしてそちらの感覚は、きちんと龍太郎の中に育っていると見ている。
それに曲がりなりにもストレートで医師免許を取っただけあり、基礎はしっかりついているのだ。
そこまで分かればあとは少しという所までは確実に自力で辿り着ける。
そしてどう辿ってきたかが明確なために、道を誤るということもない。
今朝の問題も、少しのヒントを与えることでどうにかゴールまで漕ぎ着けることが出来た。
「正解だ」
「よかった~~~!」
心から安堵したように龍太郎が胸を撫で下ろした。
大げさなリアクションに思わずフッと笑う。そんな一人に、龍太郎が眉尻を下げて聞いた。
「これって、答えれないと朝メシ抜きだったりします?」
「どうしてそんな発想になる」
確かに問題はいつも朝食の前に出しているが、何の関係もない。
「なんかこう、先生の前で答え出るまでうんうん唸ってる時、待てをされてる犬の気分なんスよ。良し!って言われたらメシを食えるんスよ」
身振り手振りで説明するイメージがあまりに思いもつかないものだったので、一人は笑ってしまった。
「朝メシを作ってるのはイシさんだ。俺が用意してるわけじゃないからな、俺の褒美には出来ん」
「キッチリしてますねぇ~」
でも安心した、と笑顔を見せる龍太郎を眺めて、ふと手が伸びる。
「犬への褒美といえば……」
なでなで、とその頭を撫でた。龍太郎の目が点になる。
「よくやったな」
撫でた髪は思ったより柔らかかった。
ぽかんとしていた龍太郎は、すぐにご機嫌な笑顔になった。
「あッなんかこれうれしいっス! 達成感感じるぅ!」
思いの外お気に召したらしい。
壁を作らない龍太郎の態度は、気を抜くと一人の態度すらも緩めてしまう。
「フフ……」
そんなことをやっていると、後でそれを見ていたらしい麻上が呆れた調子で言った。
「研修医なんだから、ご褒美なしで勉強するのが当たり前だと思いますけど……」
確かに、と思ったので一人は沈黙した。
しかし次の日また問題を出して、正解に辿り着いた龍太郎が「どうぞ!!」とばかりに心もち頭を差し出してきて、期待に満ちた目で一人の反応を待っていたので、一人の右手は気付いたら再びその頭を撫でていた。
そうしてこの制度は俄かに定着したのである。
しかしある日、ヒントを出してもとうとう龍太郎は正解に辿り着けなかった。
確かにかなり複雑で難しい症例だった。
「まだお前には早かったようだな」
そう結論付けると、眉を八の字にして龍太郎が見上げてくる。
そして一人が腕組みしたまま手を出さないことを見て取ると、目に見えてしょんぼりした。
俯いた頭に悲しげに垂れた三角の耳が今にも見えるかのようだった。
うっかり撫でそうになって思わずグッと唇を引き結ぶ。
あまりにしゅんとしていたからか、初めは厳しいことを言っていた麻上も「こんな日もありますよ」と思わず慰めている。
「ずっと褒められてたのに……」
しょぼん……と朝の食卓につき、それでも朝食はおいしいおいしいと食べていたが、褒められた後ほどの元気は無かった。
難しい問題過ぎたか……と一瞬思いかけて、いや本末転倒だと思い直す。やはり褒美やペナルティを研鑽に持ち込むべきではない。
そんな葛藤に耽っていると、次の休憩後、龍太郎が一人の所に飛び込んできた。
「先生!! さっきの問題なんですけど!!」
手に抱えているのは関連した分野の医学書だ。休憩中にわざわざ調べてきたらしい。
「これっスよね!? あってますか!?」
キラキラした目で該当部分を指してくる背後に、ぶんぶん振っている尻尾が見えるようだった。
「……正解だ」
心情的には降参だ、という方が近い。
さっき撫でられなかった分も両手でわしわし撫でると、龍太郎は「やった~!」と気持ちよさそうに目を細めて喜んでいる。
これから毎日問題を出そう。
一人は手の中でくちゃくちゃになった髪を撫でつけながら、ふさわしい出題のストックを頭の内で検討し始めた。
