シルバーブレットを待ちながら

 

 うまく嘘をつくにはコツがある。なるべく嘘をつかないことだ。
 嘘ばかりではとても信じられる味にはならない。嘘はひと匙、隠し味程度にしておくこと。それ以外は、なるべく本当のことを言うのがいい。

「明日お休みなんだね」
 シフト変更について梓さんと軽く会話した後、カウンター席から第三者が声をかけてきた。学校帰り、アイスティーとホームズをお供に蘭さんの帰りを待っているコナン君だ。
 耳に優しい穏やかな雑音がピーク時を過ぎたポアロの店内を満たしていて、それぞれの人が発する声を何気なく空気に溶け込ませてくれる。この雰囲気が無ければ、その問いは流石に少しわざとらしく響いたかもしれないなと僕は思った。
 少なくなっている水をグラスに注ぎ足してやりながら、微笑んで答える。
「うん。ちょっと断れない依頼が入っちゃってね」
 これは本当だった。
 コナン君は僕の答えに興味を惹かれた様子で、更に質問を重ねる。
「へえー。依頼ってことは、探偵のお仕事?」
「そうだよ」
 これも嘘じゃない。

 コナン君は僕の答えを受けて、明らかに頭をフル回転させ始めた。彼は僕の正体が公安警察であることも、探偵の安室透という人間が真っ赤な嘘であることも知っている。
 では〝探偵の仕事〟とは何を指しているのか。ゼロとしての指令の符牒か、それとも、探り屋と称されているもう一つの――。
 探偵という言葉は、職業だけではなく探索し偵察するという行為そのものも定義している。その日本語の汎用性を彼は今おそらく恨んでいることだろう。降谷零として何かを探るのか、バーボンとして何かを探るのか、今のやりとりだけでは特定することが出来ないからだ。
 面白いなあ。
 僕はカウンターに頬杖をついて、そんな彼の様子を見守る。

 彼にとって隠された真実というものは、生きるための糧に等しいものなのかもしれない。それを得るために藪の中、土の下と、いつも鼻面を突っ込んで嗅ぎまわっているのだから。なまじ鼻が利く分、無視も出来ないのだろう。
 営利というわけでもなくそれをするのは、隠された真実それそのものが報酬と成り得るからだ。彼にとって真実は、常に価値の揺るがぬ黄金だ。それがどんな中身であれ、真実であるというだけで追いかける価値の要件を満たすのだ。

 しかし、それは幼さゆえの無邪気ではないだろうか?
 世界は実際それほどシンプルに出来てはおらず、真実がもたらすものが常に果実とは限らない。常に価値が揺るがないものなんて、この世にはないのだから。
 紛うこと無き真実が、腐らせるべきではなかった全てをたちまち腐り果てさせる毒となることもある。
 それを白日の下に暴いたばかりに……。

 それとも。僕の世界がそうなっているというだけで、彼の世界では全ては違う話なのだろうか?
 彼の手が暴く限り、やはり真実はいついかなる時も黄金以外のものにはならないのか?
 それを取る彼の手が汚れない限りは……世界が、彼にそう在る資格を与えている限りは。
 僕とは違う資格を。

「断れないって、どうして? ボク明日、久しぶりに安室さんのハムサンド食べたかったなー」
 浮遊した思考を、コナン君の苦し紛れの声が断ち切った。
 辛うじて会話を繋ごうと言葉の端に食い下がってくる頑張りに僕は笑う。
 コナン君も苦しいアプローチだと自覚しているのか、稚気を装う口元が若干ムズムズしている気がした。
 僕は気にしないフリをしてやりながら、彼の疑問の答えを考える。
 そう、明日の案件は絶対に外せないものだった。その理由は色々あるが、あえて一つ、言える範囲で挙げるとするならば……。
「その仕事を僕にやれって言ってきた人が、こわ~い人だから……かな」
 頬杖をついたままの僕の返事に、コナン君の目つきが鋭くなる。
「へえ、安室さんが怖いと思うなんて……どんな人なの?」
 君の今の顔もけっこう怖いよ、と言おうかと思ったがやめた。茶化せない雰囲気だ。
 僕は「う~ん」と首を傾げてその人物を思い浮かべる。どんな人か? あまり考えたことはない。
「強いて言うなら……」
「強いて言うなら?」コナン君が前のめりになる。
 僕はぽつりと呟いた。
「…………なまはげ」
「……は?」
 コナン君の顔を見つめて言い直す。
「なまはげ……みたいな」
「……はぁ?」
 コナン君の声が一気に胡乱気になる。
 僕は自分の思い付いた形容が気に入り、上機嫌に笑いながら続けた。
「知らないかい? 秋田県の伝統行事でね、悪い子はいねがーって……」
「いやそれは知ってるけど」
 ぞんざいになった口調でコナン君がつっこむ。
 多分、彼は本当はこういう態度がデフォルトの子なんだと思う。
「……じゃあ、別に危ないお仕事ってわけじゃないんだ」
 少し不貞腐れたような調子で、コナン君は溶け残ったグラスの氷をカラカラ回しながら言った。僕の暢気な様子から、少なくとも〝敵〟との案件ではないと判断したらしい。

 僕は安心させるように微笑んで頷いた。
「うん。そういうわけじゃないよ」
 これは嘘だった。

 

 

 事の発端は、先日組織に命じられたある大手企業へのハッキングだった。
 その企業が以前から組織と繋がりを持っている事実は把握しており、公安の方で情報を控えているが、バーボンとして正式に接触を命じられるのは初めてだった。
 といっても重要な監視対象というわけではない。その企業が扱っているのは業界的に元々非合法な組織が関わって来やすい商材なわけだが、組織はこの企業と裏で取引をして業界においてのイニシアチブを握らせてやる代わりに、たっぷりと上納金を貰う……つまり金を払っていない他の善良な競合企業には妨害工作を行い、金を払った企業しか生き残れない状況を人為的に作り出し、優位性を確保する代わりにその見返りを受け取るマッチポンプによってかなりの利益を得ていた。
 こういう害虫が居るから日本の健全な市場が腐敗する。
 ……それはそれとして、そんな贈賄企業に対する僕への調査依頼の意図は、別に背信行為を疑って探りを入れるというような類のものではなかった。単に最近かの企業の景気が良いようなので、まだ搾り取れそうな所がないか探してこいといった具合の、一方的かつ姑息に弱みを握るための単純なハッキング指示だった。
 しかしデータベースに潜って金の流れを追っている内に、僕はそこに巧妙に隠された横領の形跡があることに気づいてしまった。
 企業から組織に流れる金はいくつものペーパーカンパニーに分けて表向きにカモフラージュされているが、そこにわざわざ不必要な分岐を設けて、少しずつ金が傍流に流されていたのだ。個々の流れを追っている限りはまず気付かないほどにさりげなく。
 だが法則性を見出して注意深く辿っていけば、起点となった時期を割り出し、どういった経緯でこの不正が為されたかまでを突き止めることが出来た。
 そして僕はその事実を組織に報告した。

「始まりは二年前、この月の……そう、この部分です。安全策として正規の会社をいくつか経由して、かなりの回り道をして最終的に組織に送金されるルートになっているのはご存知の通りですが、ここで他の正規の会社の変更に混じって非常に巧妙に切り替わっているこの会社。ここの流れを追っていくと……そう、ここです。ここで組織に流れる筈の金が一部、意図的に零されているんですね。上で流れる甘い汁を下で受け止めるために、あえて水底に開けられた抜け穴といったところでしょうか」
 椅子に座り端末を無言で操作するジンの横から画面を指して解説を入れるが、説明する端から続きの内容を察してジンが該当箇所を表示するので、非常にスムーズに話が進んだ。
 僕が横で喋る間ずっと無言無表情だったジンは、確認作業を終えると顔を上げ、ぎろりとその灰緑色の目を正面に向けた。
 僕も倣って同じ方向を見る。
 説明の間もずっとカタカタ視界の端で震えていた男は、喉の奥で小さく悲鳴を上げた。
 彼は僕と同じ調査を僕の前に命じられていた組織の末端構成員らしい。コードネーム持ちではなく、僕は今回初めて見る顔だ。
 僕は調査の結果判明した事実を簡潔にまとめ、報告書を始めはメールで送信した。すると翌日、詳細を直接説明しろと呼び出しを受けた。指定されたビルのフロアに入ると、その薄暗い室内にはジンとウォッカと、今にも気絶しそうに怯え切った彼が居たというわけだ。

「もう一度聞くが。テメェがこれを見逃したのはその目が節穴だからか? それとも二番煎じで旨い汁を啜ろうとした薄汚ねえ禿鷹だからか?」
「すっ……すみません……っ本当に何も、何も気づかなくって……ッ」
「無能がベラベラ喋るな」
 セーフティを解除した銃口を向けられた男から「ひぃっ」と掠れた悲鳴が上がった。流石に理不尽だ。僕が到着するまでに既に相当きつく尋問されていたらしく、男の顔はあちこち紫に鬱血している。
 僕は何の裏もない素直な憐れみの感情から「まあまあ」と宥めの言葉を口にした。
 こちらに向く鋭い目に諭すように言う。
「今ご説明したように、非常に巧妙に、目立たないギリギリの規模でやっている姑息な不正です。気付かないのも無理はありません。僕だから気づけたんですよ。コードネーム“バーボン”の面目躍如ってところでしょう?」
 ジンはその口元に酷薄な笑みを乗せた。
「……お優しいこったな、バーボン」
 男に向いていた銃口がこちらに向き直る。
「テメェの本当の巣から持ち込んできた、場違いな〝道義心〟ってやつか」
 僕はため息をついて、やれやれと首を振る。いつものことだという調子で。
 後ろでウォッカも「アニキ」と少し呆れたように小声で窘める。
 僕はウォッカの内心を引き継ぐように言った。
「またそれですか」困った顔をして首を傾げ、まっすぐジンの目を見つめる。「僕はいつになったら貴方に信用してもらえるんでしょうね?」
 これは本当に思っていることだ。
 ジンも僕の目をまっすぐ見返して言った。
「一生ねえな」
 残念ながら、間違いなく本音で言っている言葉だった。

 そう、いつもジンは僕に対してこの調子だ。彼は僕がこの組織に入って、コードネームを与えられ、紆余曲折あり今日に至るまでの間、ただの一度も僕を疑わなかったことはない。
 ジンは組織内部においての掃除屋でもあり、常に裏切りの気配には目を光らせている。だから基本的に周囲を疑ってかかっていると言えばそうなのだが、僕に対してのそれは明らかに別枠だった。
 正体の見当をつけている訳ではないにしろ、端から裏のある人間だと決めつけている。そして隙あれば僕を始末する機会を狙っている。つまり――構成員として優秀なのだ。大幹部の呼称は伊達ではない。
 
 僕ももう彼の信用を得ることは半ば諦めている。それで問題はない。ジン一人に疑われていたところで、要するに証拠を掴ませない、有用さを証明する、この二点さえ満たしていれば首は繋がる。僕をしつこく疑い続けているのは目下ジンのみ。そしてジンは、上の意向に表立って逆らうことは絶対にしないのだから。あとはなるべく現場でジンと鉢合わせないように逃げ回るだけだ。
 幸いにして実行部隊のジンと偵察部隊の僕は領分が違うので、仕事で顔を合わせる機会は最小限で済んでいる。しかしこういったイレギュラーな事態が起こるとそうも言っていられなくなるのが困り物だった。
 それでもどうしても避けられない場合はつべこべ言っても仕方がない。相手が捕まってはいけない鬼だとしても、開き直って正面に立つしかないのだ。

「でも僕でなければ気づけなかったのは本当だと思いませんか? 今の込み入った説明だって、貴方なら理解も容易でしょうけど、この人じゃまあ無理だろうなって思いません? 能力が低いことが罪だとしたら世の中に生きていい人間なんか最終的には居なくなりますよ。それを思えば多少可哀想だなと思うくらいはごく自然な感情の範疇だと思いますけど? 僕がどうこうというより、貴方に人間らしい感情が無さ過ぎるだけなんじゃないですか?」
 銃口を覗き込むように首を傾げてペラペラ捲し立てる僕を、視界の端で男が信じられないものを見るような目で見ている。心なしか僕にまでも怯えた顔だ。失礼なやつだ。
 ジンは僕の顔を眺めながら、珍しく真面目な調子で言った。
「確かにテメェは優秀だ」
 思いがけない褒め言葉に内心驚く僕に、ジンは続ける。
「それだけの頭と能力とツラがありゃ何でも出来るだろうよ。こんな風に毎回射線の前を通らされるようなハイリスクの場所じゃなくてもな。そんな野郎があえて〝組織〟に身を置く理由は何だと思う?」
 少なくとも今回はお前が居なければ射線の前を通らなくたって良かった筈なんだがな、と思いながら僕は答えた。
「……僕が一回のお仕事で頂く報酬、貴方もある程度把握してると思いますけど? 正直、こんな風に怖い思いをしても帳尻が取れるくらい魅力的な額ですよね」
 これは本当だ。組織からバーボンの働きへの報酬として支払われる金額はかなりのもので、プール先に溜まった数字は既に僕に対してこれまで国から支払われてきた賃金の総額を遥かに越している。
 ただ、当然そんな汚い金を僕個人として受け取るわけにはいかない。支払われた金には一切手をつけず公安で管理している。無論今後も受け取ることはない。
 帳簿を管理している部下は僕のものにならない僕への報酬が増える度に、どこか物言いたげな、心なしか憐れむような眼差しを向けてくる。上からはせめてもの情けか公僕としては破格の額が正規の給与として支払われているが、それでもバーボンへの金払いに比べれば雀の涙と言ってよかった。だがそれが何だ? どうせロクな金じゃない。組織の資金繰りの悪辣さはこの身をもって知っている。金なんてくだらない。RX-7のメンテ費用が賄えれば僕に文句はない。個人の口座の桁数が増えたところで何が変わるというんだ? 世の中の役に立つとでも? コイツだって僕より遥かに高額の、しかも自分の自由に出来る金を貰っているだろうが、どうせポルシェ356Aのメンテ費用ぐらいにしか使わないのだろう。まったく何がポルシェだ。理解できない。日本車が最強に決まってるのに。
「同じリスクなら、もっと賢い金の稼ぎ方をテメェのおつむなら出来るだろうな」
 ジンが反論してきた。高評価の大盤振る舞いだ。まったく嬉しくない。
「確かにそうかもしれませんが」本当のことなので認める。「一度その報酬に釣られて組織に関わってしまったが最後、容易に関わりが断ち切れるものじゃないことは貴方もよくご存知でしょう? もっと良い他の道が後になって見えたところで無駄ってものです。そこの男性もそういう経緯でここにいるタイプの人に見えますし」
 指差した先の男が思わずと言ったように頷いた。素直な男だ。本当はこんな恐ろしい世界をすぐにでも逃げ出したいが、弱みを握られているため叶わないといった所だろう。
「テメェはそういうタイプじゃねえだろ」
「僕の何を知ってるんですか?」
 鼻で笑ってやるが、ジンは取り合わず端末のデータに目を落とす。
「テメェならこの秘密を利用して、絶対バレねぇようにご馳走にありつく事も出来た。このハイエナと比較にならないぐらいにな。だが細大漏らさず律儀に報告を上げてきた」
 トントンとジンの指が液晶を叩いた。その下に表示された名前を、僕は見下ろした。
 ハイエナ呼ばわりされたそれは、今回の横領で最も利益を得ていた男の名前だ。この企業と組織の関係が軌道に乗った頃、初めてこの企業にハッキングを仕掛けた男。
 その時、彼は組織へ流れるはずの金を企業内の人間が横領している事実を突き止めた。しかしその事実を組織に報告しなかった。むしろそれを盾に首謀者を脅迫し、共同経営者とは名ばかりの地位に偽名を使って収まると、以来口止め料として初めの人間が横領した数倍の金額をそっくり貰い続けてきた。そして今や年単位で積み重なったその横領額は僕の年収数年分を遥かに越している。
「……絶対バレないなんて保証は無いでしょう? 万が一でもその人みたいになんかなりたくありませんから。これからどういう目に遭うのかを思えば、同情すら覚えますよ」
 僕の言葉に、後ろでウォッカがへへへと笑った。その反応を見るに既に確保は済んでいるらしい。相変わらずこの組織は処刑に関する手際はとりわけ良いな、と内心毒づく。とすると、今はおそらく拘束中だろう。すぐには殺さない筈だ。身体のパーツをいくつか失くしている可能性は高いが。
「手を抜いて見逃せば、いつか発覚した時にその人みたいにボコボコにされる。かといって見つけた上で悪巧みをすればもっと悲惨で、この人みたいにいずれ地獄を見ることになる。とすると正直に言うのが一番賢いってことになるでしょう。僕はそういう判断のできる人間です」
 そう、見逃せば己の立場が危うくなる。だから正直に報告するしかなかった。僕が齎す情報によって正統な裁きを受けぬまま一人の人間が私刑により殺されると分かっていても。
 組織に身を置き続けるには、組織に貢献しなければならない。そのために、僕は能う限りのことはする。
 例えば僕の所属する公安には自衛隊に任官しクーデターの予兆が無いか監視し続けている人間がいる。彼らを公安足らしめているのは、彼らがそういう立場でそこにいるという事実と、裏で公安に共有する幾許かの情報、それだけだ。それ以外の社会生活の大部分は自衛隊員そのものでしかない。
 僕もここにいる限りは、ここに染まらなければいけない。薄汚いコールタールのような黒色に。
 
「実際、今回の依頼意図に僕は期待以上の成果を返しました。彼がポケットに入れた金は結構な額ですが、出所が出所だけに中々ポケットから出せなかった筈です。おそらく大部分は手つかずのまま戻ってくるでしょう。本来入ってくる筈の金とはいえ、無いと思っていた金がまとめて入る訳ですから。僕への評価も上がりますよね? それで今回は十分満足ですよ」
「評価されてお前が得るメリットは何だ?」
 冷え切った声だった。僕は目を細める。
「……素直に組織の役に立てることを喜んでいるとは受け取って頂けないので?」
「ねえな。テメェに忠義心なんてものは。“他の”組織なら分からねえが」
「なんで断言できるんですか? 貴方の僕に対する疑惑って何も根拠が無いですよね?」
「根拠か。そうだな。強いて言えば俺の勘だ」
「ハッ。現実的なデータ以外のものは根拠には成り得ないんですよ」
 失笑して、今度は僕の指が端末のデータをとんとんと叩く。
 しかしジンは引かない。
「お前は組織に貢献している。金のためでもなく、血を見るのが好きなわけでもなく。だがそう在るためには積極的な動機が必要な筈だ。あえて己の価値を証明し、ここに留まるためのな」
 真面目な顔をしたジンの言葉に、僕はすぐには答えずじっとその目を見返した。
 本当に優秀だなと思う。彼は僕が疑わしい人間である事を疑っていない。口では否定したが正しい勘ほど厄介なものはないと僕は知っているし、彼もそれが根拠と成り得ることを自覚している。
 僕は優秀な人間は嫌いじゃない。だから、この男にも不思議と然程の悪感情を持っていない。
 彼こそ僕がこの任務を遂行する上で最も障害となる存在だとしても。

 だが、一人だけが優秀だったからといって思い通りに回るわけではないのが組織というものだ。
 僕はジンの目を見つめたまま笑った。
「そもそもその前提が間違っていますね。まるでとても困難なことを、何か重大な目的のために苦労してやっているみたいな言い方だ。しかし貴方も言ったでしょう、僕は優秀な男だと?」
 挑発的な物言いで一歩近づくと、銃口が完全に僕の心臓に重なった。
 おいバーボン、と後ろでウォッカが焦ったように小声で制止する。
 僕はジンから目を逸らさない。ジンも僕から目を逸らさない。
「貴方が僕に動機を見出せないのも当然です。ここにいる覚悟なんて、僕には必要ありませんから。こんな仕事も僕にとっては何の苦労もない。死ぬ心配だってしていません。今だって、貴方は絶対に僕を撃ちやしない。何故なら僕は組織に必要とされている。そして貴方は、組織に不利益なことは決してしない人ですから。そうでしょう? ジン」
 ジンの目が僅かに細められる。
 その目に宿った殺気は本物だ。
 だが同時に理解したはずだ。僕は嘘を言っていないと。
 何故なら僕は本当のことを言っているからだ。
 こんな状況僕にとっては何一つ大したことじゃない。
 完璧な笑顔を浮かべて聞いてやる。
「それとも貴方の〝忠義心〟のために、あえて組織の意向に背いてこの引き金を引きますか?」
 僕はお前なんてちっとも怖くない。

 ジンはしばらく僕の顔を眺めていたが、やがて銃口を下ろした。
 そして出し抜けに言った。
「お前に追加調査の仕事が来てる」
 片眉を上げる僕に、二つ折りのメモが差し出された。
 受け取ると、そこに書いてあったのは企業内で一番初めに金を着服し、組織の男にバレて利用されることになった社員の名だった。
「コイツの身辺を探ってこいとの仰せだ。一度潜ったお前ならスムーズに事が運ぶだろう。特に、始末するのに役立つ情報を集めろ」
 煙草を取り出し、マッチで火を点けながらのたまうジン。
 僕は眉を顰めながら言った。
「……詳細報告と追加依頼のために呼び出したにしては、随分な対応だったんじゃありませんか?」
 本気で苛ついたので、声にもそれが滲み出る。
 今度は僕を宥めるように、ウォッカが肩を叩いてきた。
「まあそう言うなよバーボン。お前への兄貴の挨拶みてえなもんじゃねえか」
 何が挨拶だ。こんな挨拶があってたまるか。お前もヤバそうな声を出してただろ。
「そういうこったな」
 ジンも心の籠っていない声で同調しながら、僕の手からメモを奪って燃え残ったマッチの火で燃やし隠滅した。そのまま指を火傷しろ。
 忌々しさをそのまま表情に出して見下ろす僕の前で、ジンは椅子から腰を上げた。
 そして僕を逆に見下ろすと、今日初めて口の端に笑みを乗せた。
 そもそもジンが僕の前で笑うことはあまり無い。その上で、珍しく愉快そうな笑みを浮かべたタイミングが、僕の機嫌が最低になったこの瞬間ということが非常に不愉快だった。
「期限は三日だ。グズグズするとハイエナが捕えられたことを察してカモが余計な行動を起こす可能性がある。早めにまた報告しろ」
「報告する相手は貴方以外にしていいですか?」
「俺にしろ」
 僕は舌打ちした。ジンは特にその態度に関しては咎めず、僕に退出の許可を出した。
 さっさと帰ろうとして、ふと視線を感じ顔を向ける。
 殴られていた男が、今や完全にジンよりも僕の方へ怯えた眼差しを向けていた。

 

 奴は機会がある毎にああして僕に揺さぶりをかけてくるつもりだ。そして尻尾を出したら儲け物と即その場で処刑の日取りを組むだろう。きっとその瞬間僕の見たこともないような嬉々とした笑みを浮かべるんだろうな。見られないのが残念だ。

 僕はくさくさした気分で改めてターゲットの身辺を洗った。
 横領。贈賄。背任。腐るほどよくある話だ。組織との付き合いが始まってしばらくは何の不正の形跡もなかった。おそらく途中で、本当に魔が差したのだろう。そこを目敏いハイエナに利用され、より巧妙に、より身入りが入るよう裏から手を加えられて今日までやって来た。
 今はおそらく風前の灯火だろうそのハイエナは金策に関して頭が回る男だったようで、このまま行けばコードネームも与えられていただろうというぐらいには組織からも重宝されていたらしい。
 しかしそれもすべては終わりだ。
 長い期間己の過ちによって利用され続けてきたカモは、一体どういう気持ちで供物を捧げ続けてきたのか。

 僕は先週侵入したばかりのデータベースに再びアクセスした。初回の侵入で必要なIDやパスワードは入手済みなので何も準備が必要ない。
 と言っても、初回の侵入も然程難しい作業ではなかった。組織にはこういう作業のサポートをする技術部隊が存在する。そこに一人腕のいいプログラマが居り、共有ネットワークにアクセスできるPCに辿り着きさえすればかなり深い所までデータ侵入できるUSBハードウェアを僕に作ってくれたのだ。
 しかしそのプログラマからするとどうやって共有ネットワークに紐付いたPCに触れるのかが謎らしく、その手法を聞かれた事がある。

「一番ガードの甘い端末を探すんですよ。まあ一番といっても実際はゴロゴロ居ます。管理が杜撰で、端末をいちいち持ち帰ってる人と偶然を装って接触し、一緒に飲んだ時にちょっと眠ってもらいさえすればすぐですね」
「こわい……」
 寒気を感じたように自分を抱きしめる素振りをしたよれよれのジャージ姿のプログラマは「アンタみたいのがいるから、オレ大事なファイルは絶対ネットワークサーバに置かないもんね」と、側にある年季の入った筐体を撫でた。
 僕は秘密基地のような彼の部屋をぐるりと見回してから、内緒話をするように顔を寄せて囁いた。
「こうやって僕を自分の部屋に招き入れてくれてる時点で手遅れですよ♡」
「ええ~勘弁してよ~♡」
 彼は僕にだけ、組織に納入しているのとは別格にハイクオリティのツールを特別に卸してくれるありがたい存在だった。組織解体の暁には僕の協力者にしようと密かに目論んでいる。

 僕はターゲットの向こう数ヶ月の業務スケジュールを眺めながらつらつらと考えた。
 この組織は犯罪行為のデパートさながらだが、売り出しているサービスの中で最も目玉なのはやはり暗殺だろう。自分の手を汚さない殺し。商材の中で最も安定した需要と供給が成立しているのがそれだ。
 こういった私刑においてもその商売としてのノウハウが役立っているというだけの事で、決して逆ではない。あくまでビジネスが主なのだ。
 よく漫画には個人営業の凄腕の殺し屋が登場するが、あんなのは非効率的なファンタジーだと思う。組織ぐるみで事前調査、共同作戦、事後工作を行う以上に確実な殺しはない。組織にいるとそれを学べる。
 一つの殺しで何人が関わり、誰が何を担当したのか外からは分からない。仕事を依頼する者、仕事を仲介する者、命令されて実行する者、証拠を隠滅する者、事実を隠蔽する者。工程の全てに組織の管理と制御が及び、どこかに綻びが出ればその部分ごと切り離す。全てはそいつがやったというようにお膳立てをした後、永久に本人の口からは弁解が出来ないよう葬られる。むしろ、構成員を始末するついでに別件の罪をなすり付けてから殺すという事も珍しくない。
 潜入を始めてから今までの、把握できる範囲の犯罪行為は全て記録して公安に保管してあるが、多分それだけでも紙にすればそろそろ六法全書くらいの厚さになるだろう。組織が主導して行っている違法行為も相当なものだが、構成員が個人として行っている違法行為もかなりの件数になる。

 初めの頃は、余裕で重犯罪として立件出来る行為が目の前で行われ、且つその証拠も握っているのに見逃すしかない立場を歯痒く感じた。何もせずに手をこまねいていて良いのか、そうする事が果たして正義なのかと迷いもした。
 しかし公安は迷わない。降谷零に与えたコマンドは〝潜入捜査〟だ。そこに居続けることが第一義であり、その成果が実を結ぶまでは間にどのような枝葉が悪徳の果実を実らせていようと無視していいと云う。
 公安は日本の治安を守るためにある。しかし未来の大きな治安を守るためには、間近の個人単位に起こる悲劇は見逃される……。
 それを矛盾だと悩む時期はとうに過ぎた。
 それでも。

 一日目には粗方の身辺調査は終わっていた。二日目の今日、ポアロのバイトに出勤しながら報告の内容を考えていた。
 そして明日の三日目、直接ターゲットに接触しようと決めた。
 報告はその後でも遅くない。

「安室さんが怖いと思う人ってどんなの?」
 探りではなく、単純な興味という様子でコナン君が尋ねてきた。
 そろそろ蘭さんも帰ってくる頃合いだろう。この小さな探偵さんの取り調べもそろそろおしまいだ。
 僕は口を開きかけて、少し考え込み、それから笑って言った。
「ナイショ」
「え゛」
 ここに来ての黙秘権行使に、コナン君が不意を突かれたような、ガッカリしたような、困惑したような、何とも味のある反応をした。
「何それ……気になるんだけど……」
「フフ……」
 にこにこする僕に、コナン君はものすごい苦虫を口いっぱいに噛み潰したような顔でいる。諦めきれないようだが諦めてもらおう。

 その内に蘭さんが帰ってきて、名残惜しげにジト目で僕を振り返りつつコナン君は退店した。
 手を振って二人を見送り、僕はふと口元を緩める。
 僕が本当に怖いと思う人。
 それは自分とは違う正しさを、そしてそれを実現する力を、僕に明確に示してみせる人だ。
 どこかで間違えているのかもしれないと。他に、やり方があったのかもしれないと。
 積み上げたものが揺らぐような不安を僕に齎す人。
「キミのことだよ、コナン君」
 そしてあとひとり。

 小さな呟きはやけに空間に浮いて響いた。店内のお客さんは既に疎らで、人々の騒めきは遠く、僕の声を今はもう紛らせてはくれない。

 

 

 犯罪は憎い。けれど、犯罪者を憎いとはもう思わない。
 昔は憎んでいた。
 実際、この国に犯罪者がいなければ、景の両親も、萩原も、松田も、班長も、みんな死なずに済んだ。
 でも景は……。

 ハゲタカはカモにコンタクトをとる際、使用していたペーパーカンパニーの名でアポを取っていた。人を遣る場合も同様だ。
 倣って連絡を入れると即日約束を取り付ける事が出来た。
 スーツを着て堂々と、来客として企業ビルに向かう。
 足がつかないようタクシーで近くまで行き、指定された裏口の方へと、大きな信号を渡ろうとした。
 その時スーッと視界の端を見覚えのある黒い流線形が走り、僕は心の底からげんなりした気持ちになった。

 誘導された近くの誰もいない陸橋の下で、僕は単刀直入に言った。
「何ですか? 御用なら手短にお願い出来ますかね。この後約束があるので」
「何の約束だ?」
「貴方の言うカモさんに会いに行くんですよ」
 ジンは無言で掌を差し出した。
「何ですか? この手は」
「テメェならもう報告に必要な情報は揃えてるだろう。寄越せ」
「……」
 僕は口を引き結んで、ゆっくりと懐に手を入れた。
 そして小さな外部記憶媒体を取り出す。
 ジンの言う通り、ここには既に要求された情報が全てあった。暗殺の段取りに必要なものも全て。
 お馴染みに付き添っているウォッカが、ジンの後ろで感心したように「なんだ、あるんじゃねえか」と呟いた。新鮮な反応だ。
 僕は成果物を掴んだ手をホールドしたまま言った。
「少し待って頂けませんか?」
「あ?」
「彼にはまだ利用価置があります。自分に全く利が無いのに命かわいさにこれまでハゲタカの言いなりになり続けてきた男です。ちょっと脅せばすぐ従うでしょう。そのまま組織が抱き込めば、無償の労働力を手に入れたも同然です。まだまだ金を引っ張れるかと」
「おいおいバーボン。そんなに上の評価が欲しいかよ」
 ウォッカがニヤニヤして茶化すが、僕の意見が一理あると考えてもいるのだろう。満更でもない反応だ。
 僕はジンの反応を待った。
 ジンは案の定、鼻で笑った。
「ご立派な志だな」ゆっくりと僕の方に近づいて来ながら言う。「なるべく人死には出したくねえか。本分がそうさせるのか?」
 僕はお馴染みのカマ掛けに取り合わず言った。
「経費削減ですよ。一人の社会的地位のある人間を闇に葬るのにどれだけの費用がかかると? 慈善事業じゃないんですから、コストを考えるべきかと」
 ウォッカには慈善事業という比喩がツボだったようで肩を震わせてウケているが、ジンはピクリとも笑わない。
「ナメた真似をした奴は殺す」
 シンプルな理論が口にされた。
 僕は確かにそれも一つのルールだなと、思わず納得しながらも反論する。
「組織はどちらの意見を採用すると思いますか?」
「余計なことをせずにそのまま渡すんだな」
 ジンは反論すらせず、諭すような口調で促した。
 目の前まで来て高みから僕を見下ろす。
「そいつを今ここで渡せば今回はこれで許してやるよ」
 まるで頑是無い子供を相手にするような言い草だ。ちょっとイラッとした。
「そんなに殺したいんですか。血に飢えてるんですか? でも、あなたは組織の方針より自分の欲望を優先するなんて不出来な駒じゃないでしょう?」
 僕の悪い癖だ。煽り返してしまう。
 言われたジンよりもウォッカの方が「なんだコイツ」という顔をした。つくづく忠臣だ。
 僕は構わず更に続けた。
「僕は必ず追加の金を引っ張ってきますよ。そしてその方が組織の期待に応える働きだと確信しています。何なら確認をとってみてください」
 ジンは動かない。事実だからだ。
 そう、ここで折れるべきはお前だ。そしてお前は間違いなくそうする。
 どういう組織かなんて関係ない。ただお前も僕も、自分達を抱える大きな仕組みが定めたルールに沿って動くひとつの装置でしかない。
 自分ではないものを動かすために走る健気な玩具みたいなものだ。
 壊すのが玩具である以上、お前の銃だって玩具に過ぎない。
 僕はお前なんか全く怖くない。
 本当に怖いのは。

 ジンはふと呟くように言った。
「最近ネズミが多く入り込んでるが、一番初めの大物はアイツだった。――スコッチ」
 心臓が嫌な跳ね方をした。
 僕は凍り付いて立ち尽くす。
 何が起こった?
 どうして突然、この男から、その名が出てきた。

 ジンは更に僕との距離を詰めた。そして、壁を背にしていた僕の顔の横に手をついて間近から覗き込んできた。
「抜け目のない野郎だった。逃がす可能性も十分あり得た。それをライの野郎が仕留めて名を揚げた。あの頃のお前は、明らかに任務中も不安定な様子だった」
 僕は帽子の陰になったジンの暗い緑色をただ見上げることしか出来ない。
 真っ先にあるのはただただ意外さだった。それが強く表情に出ていることをフリーズした思考の端で願う。
「苛立ちなのか、あるいは別の精神的動揺なのか知らねえが」
 コイツはそんな所まで見ていたのか?
 ジンの口元が僕の耳に寄せられ低い囁きを落とす。
「虐めてやりたくなる顔をしてた」

 僕は一瞬で頭に血が上って、純粋な怒りでジンを睨み付けた。
 ひどく侮辱された気がした。あの頃の絶望を、衝動を、葛藤を、理性を。
 胸倉を今にも掴みそうな怒気を見せる僕を、ジンは冷たく、それでいてどこか愉快そうに目を細めて見下ろしている。
 殺してやりたい。

「お、おい、バーボン。そろそろ時間なんじゃねえのか」
 ただならぬ僕の殺気立った様子に焦ってか、ウォッカが離れた場所から声をかけた。
 僕はじっとジンを睨んだまましばらく動かずにいたが、冷静になる為に息を長く吐き、顔を逸らした。
 腕時計を見る。確かにそろそろ行かないと約束の時刻に遅れる。
「……弁解を考えておきますよ。後で聞いてくれますよね」
 凄むように嫌味を言うと、ジンは口端を上げた。
「楽しみにしとくぜ」
 そして当然のように僕の襟元に盗聴器をつけた。アクセサリーじゃないんだぞ。
 意外に丁寧に表から見えないよう襟を直しながらジンは言った。
「この会合で結果を出さない限り今日中にそいつは始末する。カネとリスクなら迷わず後者を選ぶのが組織の方針だ」
「……わかっています」
 僕もその辺りの引き際は弁えている。
 ジンは道を空けるように一歩退けて、煙草に火を点けると、一服ふかして言った。
「なあバーボン。テメェは確かに怪しいが、少なくとも他のネズミとはまるで違う」
「……はあ」
 僕は怪訝に眉を顰めたが、ジンは気にせず続ける。
「裏切り者は皆一様に一皮剥けば同じツラだ。駒ですらない、つまらねぇその辺の人間の顔をしやがる……巣のある動物の顔をな。だが、お前の皮を剥いで行ったところで何も出てきやしねえ。タマネギみてえに空洞だ。何かに守られてる人間の顔じゃない」
 フーと吐き出された紫煙の匂いが僕を取り巻く空気を染め上げた。
「悪党の才能があるぜ。お前みたいにこの世から浮いてる奴はな」

 本当に腹が立つ。
「……じゃあ、アナタと似てるんじゃないですか」
 心にもないことを言った。なのに妙に真実味がある気がして気分が悪い。
 口元には笑みを浮かべつつも、目では睨んだ。
「似た者同士、意地悪しないでくださいよ」
 死ねという気持ちを込めて言う。
 そんな僕の顔を見て、ジンは逆に機嫌がよさそうな顔をしていた。

 

 

 いつも使っているコードで入ってきた見慣れない僕の姿を目にした途端、男は全てを諦めたようにソファに座り込んだ。
「そうか……バレてしまったんだな」
 力なく笑って肩を落とす様は、どこか憑き物が落ちたように晴れやかでもある。何だかさっき自信満々に主張した犯人像と食い違ってしまったな、と僕は内心で他人事のように考えた。
「組織は貴方が今まであの男に流していた金の二倍を今後組織に流れるようにすれば貴方を見逃すと言っています」
 僕は開口一番結論から切り出した。
 実際はそんなこと一言も言われていないが多分言うだろう。
 男は僕の言った言葉に呆けたように放心した後、迷いを振り切るように首を振った。
「いやっ……そんな甘言には乗らんぞ! 第一出来るわけがない! そんな事をしたら流石に目につく!」
「やり方を今お教えします。言う通りにすれば出来ます」
「もう沢山だ! 俺はもう楽になりたい! どうせもうブラックリストに載っているんだろう! さっさと殺せばいい! さあほら!」
 僕は襟元の盗聴器を思って閉口した。向こうでジンが嗤っているだろうなと思うと腹が立つ。
 もう完全にやけになった様子の男は、両手で頭を抱えて一人でぶつぶつと泣き言を垂れ流した。
「ちょっと魔が差しただけなんだ……それを奴は……もう限界だ……誰にも知られないままずっと……何度も正直に本当のことを言って楽になろうとしたんだ……しかし家族が……世間の目が……会社が……」
 僕はため息をついた。
 そして歩み寄りながら、なるべくやさしい声で言った。
「生きていれば、いい事もありますよ」
「何を……!」
 激昂したように泣きそうな顔を上げた男の前に立つ。
 目が合うと、魅入られたように男は唇を凍り付かせた。
 僕はその手をそっと取って微笑む。
「貴方はまだやれることがあります。ご家族もいるんでしょう? ……生きていてください」
 そう、彼には立件する日まで生きていてもらわないと困る。
 この組織を取り巻く環境は世間と隔絶されたクローズドサークルだ。内側にいる限り法は効力を持たない。ならばその世界に風穴が空くまでなるべく状態を保存しておくことが、ここで今出来る唯一の抵抗だ。
「今後も貢献してください。我々の組織のために」
 ゆっくりと囁く。その気持ちには本当の親切さも含んでいる。
 いつか法の下に保護されるまで耐えて欲しい。いずれ全ては白日の下に出るから。

 男は魂が抜けたような顔で、僕の手をか弱く握り返した。
「……はい……」
 男の目から涙が溢れる。
 別に理論があるわけじゃない。
 ただ、本当に言うことを聞かせようとするなら、僕はこのようにすれば相手が言うことを聞いてくれると知っていた。
 目を見つめて心から言えば伝わるのだ。
 それは親しい相手でも例外ではなかった。
『ゼロはずるいよ。そんな目で見つめられたら絶対に言うこと聞いてあげたくなっちゃうもんな』
 景はよくそう言って、仕方なさそうに笑っていた。
 きっとあの時も、僕が間に合って、目を見て願いさえすれば景は僕の言う通りにしてくれたのに。

 男が小切手を差し出す時、迷子の子供のような顔で僕に聞いた。
「生きていれば、本当にいい事があるでしょうか?」
 僕は笑った。
「無くったって、生きていることはいい事ですよ」

 

 

 ゲットした手付金の小切手を無言で指に挟んで差し出すと、ジンが顎をしゃくってウォッカに受け取るよう指示した。
 ウォッカはニヤニヤしながら受け取り、書かれた額を確認して口笛を吹いた。
「悪党だぜバーボン」
 賞賛の響きに、僕は肩を竦めて「どうも」と礼をする。
「小切手の金を受け取った前後に殺せば確実に足がつきます。殺さないであげてくださいね。とても協力的な態度でしたから、今後も組織の財政を潤してくれることでしょう」
 襟の盗聴器を外して差し出しながら言うと、受け取りながらジンはフンと鼻を鳴らした。
「最初の方はとてもそうは聞こえなかったがな」
 やはり聴いていたらしい。
 目を逸らして知らぬ顔をする僕の前で、ジンはウォッカに指示出しした。
「お前は裏で待機してる奴と合流して先に引き上げろ。上にソイツを渡しとけ」
「へい」
 元気よく応えてウォッカが去っていく。大金を一時的とはいえ自分の手にしてテンションが上がっているのだろうか、心なしか軽い足取りだ。さっきの今で僕とコイツを二人きりにするのは不味いなとかちょっとは頭に浮かんだりしないのだろうか?
 というか、やはり暗殺要員を既にスタンバイさせていたのか。あの場で情報を渡していたら僕の案に構わず殺っていたのかもしれない。命を紙切れようにしか感じていないのだこの男は。あの小切手みたいに。

 ジンは煙草を吹かしながら気怠く言った。
「テメェがそこまで苦心して生かす価置あるタマには思えねえがな。絞れる金だって全体で見りゃ大した規模じゃねえ」
「命はお金に換えられないものですよ」
 反論出来る内容ではないので素っ気なく雑な返事を返すと、ジンが鼻で笑う。
「裏切り者の命なんぞむしろマイナスだ。長く放置すればするだけ組織を腐らせてく。さっさと駆除しちまうに限る」
 吸い終えた煙草を地面に落として踏み躙りながらジンは言った。
「スコッチやライみてえにな」

 僕は蔑んだ目をジンに向けた。
 ジンが余裕の佇まいでポケットに手を入れて促してくる。
「じゃあ早速、バーボン自らご提案の弁解ってモンをお聞かせ願おうじゃねえか?」
「……やめました」
「あ?」
「僕があの時期個人的に精神の安定を欠いていたからといって、何でその個人的な事情について貴方に詳らかにしないといけないんですか? 貴方の主観でそのように見えたという事がいずれにせよ何かの証拠になるわけじゃないでしょう? プライベートな問題にズカズカ踏み込まれるの僕嫌いなんですよね。貴方はこういうの秘密主義って言って嫌ってるみたいですけど」

 僕の怒りはまだ冷めていなかった。時が来るまで大事に凍らせてある大切なものをベタベタと温い手で触られビショビショにされた気分だった。なんでコイツに僕の一番の傷をほじくられなきゃならないんだ? あの屋上は景と僕と奴だけの永遠に出られない箱庭だ。お前なんかの出る幕じゃない。

「今回の件、ずっと思ってたんですけどああいう金に汚かったり能力が無かったりする人材を采配した上の判断も問われるべきなんじゃないですか? そして直接選定した訳じゃないにしろその工程には貴方も絡んでたわけですよね。言ってみれば今回僕は貴方のこともフォローしたと言えるんじゃないでしょうか? そんな立場なのに始末するだの何だの、烏滸がましいですよね」

 流石に今度こそ撃たれるかもしれない。組織が僕をまだ切る気がないからといって〝待て〟をさせるのにも限度があるだろう。コイツは駒と言っても限りなく操る側に近い立場の人間だ。その気になれば独自判断も許される。分かっている。

 だが自分のプライドだけは裏切れない。
 お前に見逃されるためだけにあの頃の記憶を嘘で固めてしまうぐらいなら。

「でもこれで貴方の杜撰な仕事による失点もリカバリーされました。よかったですね? 僕を殺すのを我慢して」

 秘密を抱えて死んでやる。

 中指を立てるかの如き僕の拒絶と挑発に、ジンはすぐには何も言わなかった。怒りを湛えているというよりは、少し面食らったような様子に見えた。
 やがて左手をポケットから取り出す。嫌味なほどゆっくりした動作だった。威嚇のつもりだろうか。
 しかし懐の銃へと伸びるかと思われた大きな手は、その何も持たない素手のまま、何故か僕の顔の方まで伸びてきた。
 殴る速度ではない。見せ付けるような速度で、ただ手だけが近づいてくる。
 僕は予想外の行動が読めず、蛇に睨まれた蛙のように動けない。
 そして頬を挟むようにして、その手が僕の顎を掴んだ。

 頬に沈む指先の温かさに、冷たい銃口の感触よりも動揺した。

「小せえ頭だな。握り潰せそうだ」
 呟かれる感想を、呆然とした頭で聞く。
 思い返せばジンと身体的接触をするのはこれが初めてだった。これまでは肩がぶつかった事すら無かったのだ。
 コイツ、恒温動物だったのか……という現実逃避じみた感想を抱いて固まる僕の顔を見て、ジンがくっと嘲るように喉を鳴らす。
「ようやく怯えやがった」
 カチンときた。
「は? 別に怯えてなんていませんが。生理的嫌悪感が出ただけです」
 反射的に言い返して、振り払おうと手をかけるがビクともしなかった。強。なんだコイツ。
 僕はきつい口調で問うた。
「何がしたいんです? 何のつもりですか? この手は」
 ジンは掴まれて頬が少しむにゅっとなっているであろう僕の顔を眺めながら答えた。
「考えてる」
 何だそれは。僕は益々眉を寄せる。
 どうも、怒っている感じではない。表面上は。目が凪いでいる。緊張感もない。まだ別にそこまで腹は減っていないが昼時なのでどうするか考えているというような気だるい雰囲気の無表情だ。
 埒が明かないので僕は更に聞いた。
「何を?」
「ぶん殴るか、舌を入れてやるか」
 ぎょっとする。
「よりイヤな方をやってやる」
 ジンはまるで猶予を与えてやるような口調で実質最悪なことを言った。

 ウソだろ。何を言い出すんだ。殴るっていうのはそんな風にじっくり考えてから実行する類のものじゃないだろ? もっと衝動的に手が出るもんじゃないか? それに今お前そんなに怒ってないだろ? なのに殴るのか? いやコイツなら手が痒かったからぐらいの理由で他人を殴るんだろうな。この凶悪犯罪者が。
 コイツの本気のパンチってどのぐらいだろう? 何せガタイが良い。日本人ではそういない上背だ。いつも厚着なので分かりにくいが明らかに鍛えてもいる。その気になれば当たりどころによっては拳一発で命も狩れそうだ。
 あと舌? 舌ってどういうことだ?

 どういう意図の二択なんだと、問うために開きかけた口が目の前の男の同じ部位によって塞がった。
 精神的衝撃を受ける。
 何だか、すごく変な感じがした。
 絶対に造花だと思っていた花が生花だったような驚きだ。情動的反応や拒否感よりも、ただただ困惑が先に来た。目の前の男が、生きて血の通った肉であることに。

 唇という殆ど水袋のような柔い粘膜と粘膜が合わさると各個の境界が分からなかった。温度の違いだけが分かる。そして逆に、挨拶のように舌先に絡んだ他人の舌の、奇妙なほどの存在感を強烈に感じた。
「???」
 完全に思考が留守になった。
 ジンは顔を離すと、棒立ちで鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているであろう僕をまた眺める。観察しているようだ。
「な……なにしてるんですか?」
 間抜けな質問だがそれ以外聞きようがなかった。ジンは言葉の通じない生き物を見るような冷たい目で僕を見下ろすと、再び顔を近づけてくる。僕は仰け反った。
「や、やめてください。噛みますよ」
 端的に制止する。口腔を負傷したくなければやめろと。
 ジンはピタリと動きを止めると、こちらも端的に言った。
「噛んだら殺す」
 そして再び僕の口を塞いだ。
 
 ば……馬鹿な……そんな、そんな理屈が許されるか? 噛んだら殺す? まるでそれがルールから外れた行いみたいな言い方じゃないか? 掟外れなことをしているのはお前だろ? どちらかというと僕がキスしたら殺すって言っていい立場じゃないのか?
 キス? そうかキスかこれ。 え? 僕は一体なにをしているんだ?

 遅ればせながら抵抗しようとしたが、不味いことに背後が壁のせいでうまく逃げられない。遠距離からの狙撃を警戒してジンと話す時は常に壁を背にするようにしている癖が仇となった。
 仰反るような不安定な体勢にさせられているせいで上半身のバネも上手く使えない。
 足も膝の間に奴の足が入り込んでいる上に身体同士が密着しているため封じられていた。
 そして充分なリーチの取れない状態からではジンの手足も身体も全くビクともさせられない。
 詰んでいた。なんだコイツ玄人すぎる。
 しかも本当になんだか、こう、変な気分になってくるほど、キスが、なんというか。
「っ、……は、……!」
 食べられるような大胆な動きで口腔を侵され、未知の感覚に思わず身を竦めた。

 大混乱の頭の中で、ベルモットと以前した会話をふと思い出す。ひょんな会話の流れから彼女がどうもジンのことを男として、何というかベッドを共にする的な、そういう価値基準で高く評価しているらしいという事を知った。へえ〜けっこうなご趣味ですねと引いた感想を述べた僕に、ベルモットは意味深に笑いつつ訂正することはしなかったのだが、今この時、あのベルモットの評価が何となく、ああなるほどこういう感じのことを言ってたのかなと納得されてしまう。僕も彼女には割と気に入られているらしいが、所詮お付きの者とかアクセサリーみたいな気に入られ方であって、こういう感じのことをする相手としてではまずないようだ、しかしジンは、いや待て、というかおかしいだろ、そうであったとしても僕はコイツと対置されるポジションのはずで、決して自分の身でその実力を知りたくは、

 解放は不意に訪れた。
 口の中に隙間があることが新鮮に感じるほど濃厚なのをかまされて、僕はお互いの舌先に糸が引いたのを頭の隅で認識しながら愕然として壁に背を預けた。もうこの背後の冷たい壁しか僕の縋れるものはないからだ。
「な……、ば……」
 言葉が出ない。ジンは僕を見下ろしながら舌舐めずりをして濡れた唇を拭った。その仕草には大型の肉食獣のような迫力があった。対して僕はといえば完全に顔が熱く真っ赤に火照っている自覚がある。最悪だ。どうして青褪めてくれないんだ。緊張と驚愕を越えてどうしようもなく恥ずかしいからだ。何でこんな事になってるんだ!

「いっ、嫌がらせでこんなことするなんてっ、頭おかしいんじゃないですか!?」
 声が情けなくひっくり返る。でも仕方がない、状況が情けないのだから情けなくない声が出た方が変だ。
「いくら組織と言えど不当に構成員に暴行を加えたことが発覚すれば処罰される筈でしたよね!!」
 先生に言い付けてやるみたいな言い方になってしまった。無法な組織を滅すためにここにいるのに組織の規律を期待するような発言をしてしまった自分が自分で許せない。
 ジンはさらっと答えた。
「経験上、怪我をさせると事情を聞かれるが手を出す分には別に何も言って来ねえな」
 とんでもないヤツだ。
 一体今までどれだけの女性構成員がその経験の餌食になったんだ? この野獣め。ベルモットは満更でもなさそうだったが……いや女性だけじゃないのか? 僕がその枠に入れられようとしているのか? そんな馬鹿な話があってたまるか。殴られるのとどっちがマシだっただろう? 考えるまでもない。殴られる方がマシだ。そういえばコイツ、よりイヤな方をやってやると言っていたな。正解だ。死ね。

「生意気言ってすみませんでした」
 僕は潔く折れた。完全に怒りが萎えていた。
「帰っていいですか」
「さっきまでの威勢はどうした?」
「おかげさまで冷静になりました。これからも頑張ります。次の仕事でもよろしくお願いします。離してください」
「弁解は?」
 嘘だろ。それを言うまで許さないつもりか?

 僕はまたカッとなって口を開いて罵倒しかけたが、予想がついていたように声に出す前にまた塞がれた。
 苦い味がする。ジンが吸っている煙草の味だろう。最悪だ。味を覚えてしまった。現在進行形で味蕾に感じているが今すぐ忘れたい。

 それから何度も濃厚に口づけては突然やめるという事をジンは繰り返した。僕に言う機会を与えるため。僕から言わない選択肢を奪うため。
 唇が解放されて自由に動かせるようになる度、僕は逃れようと藻掻くが如く別の言葉を口にしようとして、ジンはその度にそれが要求している言葉ではないことを正しく察して封殺した。

 もう酸欠になりそうで頭がふわふわしてきた頃、僕はもう耐えられなくなって、ようやくまた口が離された時に、転び出るように言った。
「僕は」
 ジンは行為をやめることで続きを促した。
「僕はスコッチのことは好きで、ライのことは嫌いだったんです」
 嘘を言うことはできない。特にこの件については。
 だから、なるべく、本当のことを言うしかない。
「スコッチは、いい奴でした。仕事で組んだ時も親切で……ここにだって、そういう仲間意識はあるでしょう。キャンティとコルンだって、スナイパー仲間を使い潰して死なせたベルモットを恨んでいるって話じゃないですか。僕も、彼が唯一、ここで仲間意識を覚えていた相手で……騙されていたんだとしても、一度覚えた仲間意識のせいで憎み切れなくて……だから……だから、アイツに始末されて、スコッチが死んだ時……」
 熱に浮かされたように言葉が溢れる。
「なんで逆じゃなかったんだって……」
 自分の言葉が防御できない心の柔らかい表面をザリザリと抉っていく。
 僕の目を見つめているジンには伝わっているだろう。僕の心が今、お前に犯されていることが。
「しかも結局、アイツも裏切り者だったわけでしょう。それなのにスコッチを殺して、裏切り者を始末したという触れ込みで評価を得たんです、アイツは。スコッチの死は、奴に利用されたんだ。そのことが、なんだか……すごく……許せなくて」
 本当に熱が出ているのだとしたら、それは強い精神の痛みによる熱だった。

 ジンは嗤っていた。
 嘲笑うというのとは少し違う。どこか憐れむような穏やかさがあった。
 僕も笑った。引きつった笑いだった。
「そんなにおかしいですか。この組織にも色んな人がいるし、いていいでしょう? おかしくなんてないですよ。貴方が疑いすぎなんだ。浮いてるのは、貴方だけですよ」
 僕は動けないし、疲れたし、自暴自棄になって、八つ当たりのようにジンの肩に顔を埋めながらもう一度既に言った言葉を繰り返した。
「貴方に人間らしい感情が無さすぎるんだと思いますよ、単に」
 この世で一番みっともない姿を晒している。誰にも見せない感情を暴かれている。
 こんな姿を見られたからにはコイツを始末するしかない。
 けれどきっと、コイツを倒す弾丸は僕のものじゃない。
 お前だけじゃない。僕の弾丸だって玩具だ。
 もう泣きわめいて全部ぶちまけてやりたい気分だった。僕は公安警察の降谷零だ。お前を逮捕してやる。署まで同行しろ。
 そしたら流石にジンは悪趣味なお遊びなんてやめて、この場で僕を、このバーボンを、正真正銘の裏切り者として殺すだろう。
 たったひとつの真実が明らかになったことで齎される結果ならそれは正しいんじゃないか?

 ジンは肩に伏せた僕の頭を褒めるように撫でて言った。
「お前は本当に虐めたくなるツラをしてるな」
 そんな賞賛この世で一番うれしくないんだよ。

 僕は出し抜けに顔を上げると、自分からジンに口づけた。
 そしてその舌をけっこうな力で噛んでやった。
 反射で強張る苦い舌に僅かに溜飲を下げる。
 滲んできた血の味に、僕は顔を離して唇を嘗めた。
「貴方の舌は苦いから、血がすごく甘く感じますね」
 目を細めて言ってやる。
 実際とても甘く感じた。美味しいほどに。
 噛んだら殺すと言っていた。この味が僕の最後の晩餐になるのか?
 悪くないような気もする。

 無表情になってそんな僕を見下ろしていたジンは、怒りもせずに無言でまた僕にキスをした。
 そして何を考えているのか、痛い筈の切れた舌で懲りずに僕の舌を愛撫してくる。
 本当におかしいなこの男、と思いながら僕はその舌を舐った。なんだかとてもおいしかった。
 もしかしてご褒美のつもりなんだろうか。子供に飴玉をくれるみたいに。
 怒らないのをいい事に僕は自分の持てる限りのテクニックを駆使してジンの傷ついた舌を愛撫してやった。多分それなりに気持ちいいだろうし多分そうとうに痛いだろう。
 ジンの手がいつの間にか腰と頭の後ろに回って僕の身体を撫でる。
 触り方が絶妙で正直気持ちがよかった。多分セックスも上手いんだろうなと素直に思った。女にもモテるだろう。ベルモットにごめんなさいしないといけない。
 あれだけ人のことを散々おかしい呼ばわりしてきたが、多分コイツも何でもできるタイプの人間だ。
 僕たちはお互いにかなり優秀だろう。それが何でこんなことをしてるんだ? 馬鹿みたいだ。
 でも、こんな暇つぶしに走るのも仕方がないのかもしれない。お前も僕も、お互い信用しなくていい相手だってことはこんなにもハッキリと分かり合っているのに、その先にはどう足掻いてもまだ行けない。僕は尻尾を出さないし、お前も首を差し出さない。僕たちには自分の命を自分でどうこうする権利はなく、そして僕たちはどちらも優秀な駒だから、組織そのものならいざ知らず一構成員ごときに自分の命をどうこうさせたりはしないからだ。
 たまにこうして崖に落ちるギリギリの淵で下を覗き込むようなスリルを味わったとしても、同時にそれはどこまで行ってもスリルでしかない。得点の取れないまま失点を延々と回避するゲーム。本当に不毛だ。この時間はいつまで続くのだろう? 何が終わらせてくれるのだろう。

 シルバーブレットと、たまに組織では耳にすることがある。
 不死のものを殺す弾丸。
 〝彼ら〟を指して口にされる。決して僕ではない。
 僕は。
 
 景の心臓を貫いた銃弾は、本当の情報が入った端末を撃ち抜いて僕を守りもした。
 僕は景を殺した弾丸で生きている。

 銀の弾丸で死ぬ化物と、嘘を守るための弾丸で生き永らえる僕。果たして一体どちらの方がより悍ましい存在だろう?

 思考に嵌まって集中力を欠いていた僕を咎めるように、舌を絶妙な強さで噛まれた。
 思わず肩が跳ねる。
 近すぎてぶれる眼を見つめると、それは何だか僕と同じようなことを考えている目のような気がした。
 僕らだけでするゲームはロスタイムにしかならないと分かっている目だ。
 この男は本当に有能だ。
 それが分かるから憎み切れない。
 有能な人間は好きだった。
 だって、こんな奴に負けたのなら仕方がないと思えるだろう。
 景の死んだ原因が、コイツだったら自分を許すことが出来たのに。心置きなく恨んで殺したのに。あるいは、もしこの先、僕が死ぬ事があっても――。

 でも僕の心がそれを許していても、そんな僕が許されることはない。

 僕は噛まれた舌を取り返した。そして顔を離して、くだらない時間に終わりを告げた。
 ジンも飽きたのかもう追いかけてくることはしなかった。
 お互い引き際が肝心だよな。

 僕はお前に殺されるわけにはいかない。いつか銀の弾丸は撃ち込まれなければならない。お前は、最後には負けるべき人間だ。
 とすると、たとえその座から引き摺り下す人間が僕でなくとも、全てが正しい所に収まれば、そしてその時お互いが生きていたなら、僕は勝者の立場で敗北したお前と相対することになるだろう。
 僕たちの間に対した差は無くても。
 でも、それが組織の力ってやつだ。

 もしいつか、穴の空いたアクリル板越しに会うことがあれば。その時こそ僕はせめてもの慰めに、一から十まで本当のことをお前に喋ってやるから。
 悪く思うなよ。ジン。