「あれ? ダイのやつ、もう修行に行っちまったのか?」
既に日も高くなって、ようやく起き出してきたポップが欠伸をしながらヒュンケルに聞く。
「数時間前にな」
「アイツほんとに朝早いんだよな~」
お前が遅いんだ、とは言わない。今は少しでも長く休息をとるのは良いことだ。
二、三日は呪文を使わず大人しくしていろとマトリフ師に厳命されたポップは、昨日の朝パプニカに到着してからというもの日がな一日気ままに過ごしていた。アバンの書をダイにせがまれて音読してやったり、ダイの修行を見に行ったり、と思いきや戻ってきてヒュンケルに色々質問してきたり、城内をフラフラしてみたり。
「おっさんは? じいさんは?」
「クロコダインもおそらく修行だ。バダックさんも一緒に先刻出ていった」
「ふ~ん」
気の抜けた相槌をうつと、ポップはテーブルを挟んだ隣の椅子に腰掛け、机上に置いてあった茶を勝手知ったるとばかりにコップに注いで飲み始めた。昨日今日と三賢者のエイミが用意していくものだが、他の誰も手をつけないのでポップ用の茶と化している。
呪文を使えないにしろ、ポップは基本的にダイの所に行きたがるものかと思いきや、意外な事にヒュンケルしかいないこの部屋にもちょくちょく訪れては何かと話しかけてきた。
最初アバンの書を読みたいのかと思い、回そうかと思ったのだが「呪文のとこざっと読んだけどもう知ってることばっかだったからいいや」とあっさりヒュンケルに譲ってくる。
代わりにヒュンケルが魔王軍時代に得た伝承の知識に興味を引かれたらしく、知っている限りの竜の騎士に関する言い伝え等を熱心に聞いてきた。他にもダイの前で話すには忍びないバランの過去や、鎧の魔剣や魔槍の作者の名等、今後役立つかもしれない情報を共有できたことはヒュンケルにとっても有意義だった。
しかしヒュンケルから教えてやれる情報がネタ切れになってくると、次第にポップは呆れる程くだらない会話を思い付くまま持ち掛けてくるようになった。
唐突に「さて問題! 次で挙げるモンスターのうち先生のオススメ食材はどれ!」とか出題してきたり「おまえ好きなおやつ何?」とか聞いてきたり「アムドしてくれよ! アムド!」と意味なくせがんできたりする。
大体適当にあしらっているが、たった今聞かれた「大地斬とか海破斬みたいなやつって槍にもあんの?」という質問は久しぶりに戦いに関係のある話題だったので、真面目に答える事にした。
「ある。というより、アバン流は武器によって六つの流派に分かれているが、地・海・空に当たる三系統がその基本を成すことは共通しているようだ」
納得するかと思いきや、ポップは「げー。もう全部の武器のページ読んだのかよ」と、そこに何か問題があるかのような反応をした。怪訝に思いながら訂正する。
「ざっと読んだだけだ。今読み込む必要があるのは槍殺法の部分だけだからな」
「ふ~ん。じゃあ槍の勉強は? 捗ってるか?」
「まだ全部は読み終わっていない。……何だかんだとお前が話しかけてくるから」
こんな言い方をすれば、また腹を立てさせて性格が悪いだの何だの言われるかと思うが、事実なのだから仕方ない。
しかし言われたポップは意外にも照れたような、何かを誤魔化すような笑みを浮かべた。
「え? えへへ」
その拍子抜けするような、珍しい反応に面食らう。
そもそも昨日から、ヒュンケルの心の底には戸惑いがあった。よく陽のあたる人のいない静かなこの部屋で、暇を持て余したようなポップだけがテーブルを挟んで隣に座り、戦いや使命に全く関係の無い他愛ない話をとりとめもなく振ってくる。それは今が何時なのか、ここが何処なのか忘れるような、現実感のない浮いた時間だった。
そしてその馴染みのないポップの振る舞いすべてが、恐ろしいほど抵抗無く心の内に入り込み、粉雪のように仄かな記憶として降り積もって、底の戸惑いを覆っていく。
ほんの少し前には、そのよく光を映す大きな瞳は力なく閉じられて、決して開くことは無かったのだ。調子よく言葉を紡ぐ唇は白くなって強張り、生き生きとした皮膚は蝋のように血の気を失って温度を失くしていたのだ。
己のために涙を浮かべ、死ぬなと叫んでくれたその命を死んでも救いたいと願ったのに、友の助けでようやくそれが叶ったのに、ポップは目の前でその全てを犠牲にしてしまった。命が失われる瞬間、己は何も出来なかった。
ボロボロになって闘った頼りない身体を支えて歩いた手には、生きている人間の重みと暖かさが確かに伝わってきていたのに。灯火が消えるように、光が去った後そこからは何もかもが無くなっていた。
呪法生命体のようには目に見える形を持たない魂、しかし確かにそこにそれが在るということを、心を通じ合うことで初めて理解するのが人間なのだと。ポップという魂が目の前で失われたことで、初めて分かった。
それはこの手で奪った多くの人間の命も同じだった筈の有りようだ。闇に呑まれ同じ過ちを犯す、人の心を持ったバランの気持ちが、己なら分かるとヒュンケルはラーハルトの話を聞いた時に思った。思い上がっていた。
だがポップの死体を塵のように投げ棄てるバランを目にした時の、目の前が赤く染まるような怒りと憎悪。それは理屈や正論など存在しない視界だった。あの時もしバランと同じ力があれば、己はバランを間違いなく殺していた。いくつもの人間の国を滅ぼしたバランのように。
それが一度犯した過ちだと顧る事すら出来ずに、通い合ったせいで最早己の血肉と化したひとつの魂を、奪い去られた心の痛みのままで。
蘇生したポップは今や、その身に訪れた死が嘘のようにコロコロと表情を変え、気ままに動き、思ったまま喋る。じゃれるようにヒュンケルにどうでもいい事を話しかけ、気が変わったようにふらっと離れていく。ヒュンケルはその動く姿を、声を、目で耳でじっと追ってしまう。そうしてバランが返してくれた、バラン自身には戻ってこないその温もりを例えようもなく得難いと感じ、そして同じだけ自問する。このひとときは、己に許されるひとときなのかと。
「……どうしてオレに話しかけに来る?」
詮無い問いと知りながら、ヒュンケルは我慢出来ず尋ねた。やはりどうにも落ち着かない。貰う資格のないものを、貰っている気がして。
「聞きたいことはもう聞き終えたのだろう」
まるで話しかけるなと言っているように聞こえると、邪魔に思っているように響くと、分かっている。
だが誤解されても構わない。話しかけられて楽しいと思うこの感情が、果たして己に許されていることなのかすら、己には分からないのだ。
ヒュンケルの問いに、頬杖をついているポップの目が丸くなる。
そのままあらぬ方向を見て少し考え込んだ後、珍しく少し真剣な、改まった顔つきになってポップは言った。
「……やっぱ大々的に許されてるにしてもさ。パプニカの城にお前が一人でぽつんと居るの、気まずいんじゃないかと思って」
ヒュンケルは目を見開いた。
思い返せば、クロコダインやバダックがこの部屋に居る時には、ポップはそれほど近寄って来なかった事に気付く。
ヒュンケルが一人でこの部屋にいる時にだけ、ふらりとそばに居着いた。そうして、何かの役に立つとも思えないどうでもいいような話を聞きたがり、話したがり、時に何が面白いのか屈託なく笑った。ヒュンケルはその顔をただ、まじまじと見ていた。
「おれなんかでも、一緒にいればちょっとは気楽だろ?」
そう言ってポップはふっと目を細めた。穏やかな表情は常より大人びて、優しげな顔立ちを際立たせる。
「……ポップ」
ヒュンケルは呆然と呟いた。
ポップと話している時はいつも、自分がまるで、何の罪もない普通の人間になったような気がする。今この瞬間の自分だけが全てで、過ぎ去ったものはもう本当にこの世には存在しないものなのだという感覚になる。そんなわけが無いのに。
初めは何故かと思っていたが、次第にそれは、ポップという男がそういう原理で動いている人間だからなのだと理解した。
敵の所業へ怒り、全身全霊で策を講じ、しかしポップは決して恨みという感情を持つことがない。
死闘を演じたクロコダインとヒュンケルに対しても、仲間になればそういうものだとすんなりと受け入れ、すぐに情ではなくその戦力に対して全幅の信頼を置いてくれた。置かれた状況が、そうでもしなければ切り抜けられない苦境だったというのもあるだろうが。
そして自分たちをただ屠るものとしてしか認識していなかったフレイザードの最期に、ポップは驚くほど素朴な追悼を示した。悪党だろうが敵だろうが、眠る者には等しく安息と尊重の与えられる権利があるというように。
ポップは悪を悪だと断じる公正さを持ちながら、しかし悪の中にも人格を見ている。相容れぬ堕ちた有象無象ではなく、対等な隣人として見做している。
その在りようは、善性だけが真だと全ての闇を退け照らそうと団結する、強く清浄な光ではない。周囲と影響せず、どんな時もただそこで光り続ける一個の灯のような、孤立して尚も揺るがぬ正義だ。
自身を甚振り殺そうとした敵の一員であるラーハルトの不幸を、ポップは悲しんで泣いた。ダイの記憶を奪い自身に命を落とさせたバランの過去を聞き、心を痛め俯いた。
その隔たりのない心が、ただそこに在るように在ることを容れる無為の許しが、己を許せぬヒュンケルすらも許してしまう。どれほどこの身が罪に塗れていようが、ポップは知ったことではないというように接してくる。思うように思い、考えたように行動する。その自由な寛容さが、周囲をどれだけ癒すのかにも頓着せず。
しかしパプニカという己の罪の象徴となった国に恥知らずにも歓待され、多くのものを奪っておきながらおめおめと施しを与えられているこの状況が我が身を苛んでいるのは事実だが、それは己の完全なる自業自得でしかない。
隣に居てくれた時、胸中を蝕むようなその罪悪感をポップは確かに忘れさせてくれていた。その有難さに今この瞬間ようやく気付き、そして改めて、やはりそれは己が受け取ってはならない時間だと思う。
己はそんな風に気遣って貰う価値のない男だ。むしろそれは感じなければならない罪悪感であるはずだ。
ポップは確かに優しい男だが、その優しさはマァムのような、そうするのが唯一無二の真理として弱き者へ助け手を与えるため差し伸べられるそれではない。個としてそうあるものを認めてくれる、奪わない受容だ。静かな無関心だ。ポップはそのままでいい。それで十分すぎる。
ポップがどういうつもりでそんな風にヒュンケルの苦しみを和らげようと思い立ったのかは知らない。竜騎衆から助けた時に、礼は言っておくと感謝を述べていたから、ポップなりにそれを恩にでも感じているのかもしれない。しかしヒュンケルがポップを助けたのは全て己自身のためだ。むしろポップこそが礼であり、それを返してくれたバランに恩があるのは己なのだ。
これ以上与えようとしてくれる必要などない。有難いが、こんな罪人を気遣ったところで、ポップに得るものはない。魔法は使わないにしろ、もっと他の、より快く過ごせる場所へ行けばいい。ダイの所でもいいし、パプニカ城の他の人間がいる部屋でもいいし、街中でも、とにかくポップに利のある何処へでも。
そんな風に優しさを与えられて、返せるものが己には何もない。
今だって、それを上手く、傷つけずにポップへ伝える言葉が思いつかずに固まることしか出来ないのだ。どうしようもない人間なのだ。
黙り込むヒュンケルと、同じく何も言わないポップとの間で、暫し見つめ合ったまま沈黙が流れる。
しかし不意に、それまで真剣な表情をしていたポップがいきなり、破顔と呼ぶに相応しい満面の笑みを浮かべた。そして底抜けに明るい声でこう言った。
「なーんちゃって。うっそ~」
悪戯に成功した子供のような無邪気な笑みを向けられ、ヒュンケルは思考停止する。
「……は?」
ポップは照れ隠しというわけでも、おどけているというのでもない、ただ純粋にからかうような、してやったりという様子でのたまった。
「妨害工作」
「……は?」
「せっかくおまえ武器チェンジしてレベル下がったのにさあ。おれが休んでる間にメキメキ上達されたら癪じゃん。だから邪魔してたの」
「……。」
「おっさんとかじいさんが居る間にあんま話しかけても、ヒュンケルの勉強邪魔すんなってやんわり止められちまうからさ。お前が一人の時を見計らって」
「…………。」
気づいたら手が出ていた。
「んええ! ひゃめろひゅんへふ! ふおっふ! ふおっふ!」
両頬をつまんで左右に引っ張られ、ポップはヒュンケルの手首を掴みジタバタともがいた。
力は大して込めていないが精神的な動揺が大きいらしい。何度か左右に伸び縮みさせてから解放すると、動転した表情で両頬を押さえ戦慄く。
「ビ、ビビった~~~……お前こういうことするヤツなんだ……初めて知ったわ……」
それはそうだろう。他人の頬を伸ばしたことなど生まれて初めてだ。温いスライムのような感触だった。
「そんなに怒んなよお。大丈夫だって、お前なら槍さっぽーだろうがお茶の子さいさいだってぇ。いろいろ聞けておれも面白かったぜ」
ヘラヘラと取ってつけたように愛想よく言う。宥めているつもりだろうか。
どうしてくれようかこいつ……と、かつてない脱力感と反比例して湧き上がる何かの衝動をヒュンケルが持てあます中、外からルーラの着地音が響いた。
「おっ。そうか昼飯時か」
ダイの帰着を察して窓に近寄ったポップは、外を覗いた途端いかにも嬉しそうな、一段高くなった声を上げて身を乗り出す。
「あっ! アイツ師匠連れてきてんじゃ~ん!」
尻尾があったら振っていただろうというような喜びようだ。どれだけ懐いているか分かる。あんな反応をヒュンケルに見せることは一生あり得ないだろう。
そのまま鼻歌でも歌いそうな素振りで外に向かおうとしたポップは、既に目に入っていないだろうと思われたヒュンケルの横を通り過ぎる前、はたと立ち止まった。
「そういやダイといえば」
思い出したように呟くとヒュンケルの隣に寄ってきて、開いているアバンの書を横から覗き込むようにする。
ヒュンケルは警戒した。一体今度は何を言うつもりなのか。
ポップは師の姿を認めた時のものとはまた違う、しかし普段あまりヒュンケルに向けて来ない類の愛嬌ある笑顔を浮かべると、楽しそうに言った。
「アイツ先生に弟子入りした時、スペシャルハードコース受けてたんだけどさ」
「……何だそれは」
「スペシャルハードなコースだよ。一週間で勇者になっちゃおう!って無茶苦茶なスケジュールの。まあ途中までしか受けらんなかったんだけどさ……でも最初の三日で、ダイのやつ大地斬と海破斬は本当に習得しちまったんだぜ」
「……三日?」
呆然と呟くヒュンケルにポップはにこにこと頷く。
「そう。三日。いや、三日目の途中までだから三日足らずか? 槍だと大地……海……何? なんて呼ぶのか知らねえけどお」
本気で読むつもりも無さそうに目を細めて槍殺法を解説したページをざっと眺める素振りを見せると、ポップは自分には関係ないと言うようにひらひらと手を振って、今度こそ上機嫌に部屋をあとにした。
「ま、おまえも精々頑張れや~」という気のない応援を残して。
「……上等だ」
ヒュンケルは低く呟く。
先程まで何を考えていたのか、最早何も覚えていない。沸々と湧いてくる闘志に全ての感傷は押し流される。
絶対に槍殺法をものにしてやる。そして、あのふざけた弟弟子に思い知らせてやる。
妨害工作だか何だか知らんが無駄な足掻きだと。お前はただ意味のない雑談をしに来ただけだと。
師が理論化した槍殺法の解説文を、今度こそ集中しようと目で追う。
しかし未練と言うのでもないが、人の気も知らないで今しがた去っていった弟弟子への発散し切れない衝動が胸の奥で蟠って気が散った。
怒りというと少し違う。殺意というともっと違う。
例えて言うなら、もう少し頬をつねり足りないような。あの細い体を捕まえて持ち上げて揺さぶって、とにかく何かを問い質したいような。
この感情は一体何だ。ヒュンケルは暫しの間思い悩み、槍殺法の頁から一旦離れ、心について書かれた空の章を読みふけった。いいことが書いてあったが、今抱えている疑問の参考にはならなそうだった。
