天を左右する指先

 隣の部屋からは傷の治療をしながら、持ってきてやったアバンの書を読んではしゃぐダイとポップとレオナの声が扉越しに聞こえる。
 無邪気なその声を聞きながら、弟子は一度死んだのだと聞かされる時の感情というのは名状し難かった。

 連中があまりにも満身創痍だったので、どういう戦いだったかヒュンケルとクロコダインに軽く説明を求めた。敵がダイの実の父であり本家本元の竜の騎士だったという今回の大まかな経緯を聞いて、よく生き残れたなと本気半分、冗談半分で感想を述べたマトリフに告げられた事実がそれだ。全員居ることに内心安堵したからこそ言った軽口に、実際死んだという答えが返ってくるとは思わない。

「消されてしまった記憶をダイが取り戻したのは、ポップの死によってでした」
 クロコダインが重い口調で語る。
 メガンテによる特攻、完遂出来なかった事により大きな損壊を免れた肉体、正当な竜の騎士の血を与えられたことによる蘇生。
 何もかも紙一重だ。そんな紙一重でしぶとく生き残ったくせに、先刻マトリフが駆け付けた時もあっけなく死にかけていた。ルーラで駆けつけ姿が見えたと思いきや絶体絶命の弟子に、あの時も相当肝を冷やしたものだが。
「本人は平気だと言っているのですが、本当に大丈夫なんでしょうか」
 ヒュンケルが深刻な様子で尋ねてくる。しかし竜の血による蘇生などマトリフでも流石にお目にかかったことが無い。
 考え込むマトリフに、外から入ってきて途中から共に話を聞いていた占い師の娘がおずおずと口を挟む。その手には、おそらくどこかから調達してきたのであろう裁縫道具が抱えられていた。
「一人になった時、ポップさん……苦しそうに胸を押さえていました」
「胸を?」
「はい。心臓のあたりを……」
 不安に曇る表情で報告された症状には、心当たりがあった。禁呪や、それに近い呪文を用いた時の肉体的なダメージだ。
 竜の血による蘇生がどういった経過を辿って成功するのかは未知数だが、そうした反動が出るということは、例えるなら無生物に命を吹き込む禁呪法に近い要素があるのかもしれない。離れた魂を肉体に込め直す……その一端を蘇生した当人が負っているのか?
「そうか。無茶な呪文を使った時の症状に似ているな。だがそういうダメージは回復呪文でどうこう出来る類のものじゃない。まあ二、三日派手な呪文を使わず安静にしてりゃあ、痛みもしなくなるだろう。後でオレから伝えておく」
「そうですか……」
 幾分かホッとした顔でメルルが言い、ヒュンケルも頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「おう」
 腕組して半ば上の空で返事し、マトリフは沈思した。

 禁呪のような、一度に出力する精神エネルギーが膨大すぎる魔法を使用した際の肉体への反動。
 実感でしか知り得ないその機序を、明確にこうだと定義付けることは難しい。しいて言えば、精神が肉体からずれるような感覚だ。満たされた水のようにぴったりと人という器の形を成していた精神が溢れ、形を崩し、その影響が肉体に及ぶ。瞬間走り抜ける、形が内からほどけるような苦痛。
 マトリフにはそれでも百年近い歳月を重ねた肉体の記憶がある。魂へゆっくりと彫刻された強固な像は、横溢した精神エネルギーによって損傷はしても変質はしない。
 しかしポップはまだ背も伸び切っていないような子供だ。男子三日会わざれば刮目して見よと言うが、目まぐるしく成長し形を変えている真っ最中の肉体は安定した像を結ばない。そんな不安定な肉体に及ぶ不定形のダメージが、良い影響を与える筈もなかった。

 今の時点でポップは魔法使いとして相当な実力をつけている。マトリフの手持ちの呪文の中でも最高レベルの威力と汎用性と難易度を誇るベタンも完全にものにした。基本的な火炎系と氷雪系呪文は元々完璧に近いし、火力の強いベギラマも習得している。飛翔呪文による機動性も申し分ないし、戦闘で役に立てるレベルは十分満たしていると言っていいだろう。
 それでも追いつかない質と量に襲われ続けているのだという事も理解はしているが、今回は流石に状況が絶望的すぎた。勇者であるダイが不在の状態で、正当な竜の騎士とその部下を迎え撃たなければならないような苦境だったからこそ、ポップも矢面に立ち限界を越えた無茶を冒さざるを得なかった。
 しかしダイが戻ってきた以上、スタンダードな魔法使いの戦い方……近接戦闘職に前衛は任せ、後衛で仲間のサポートと広範囲攻撃に徹する在り方に専念することも出来るのではないか。年齢にそぐわぬ、肉体に響くようなこれ以上の無茶を重ねることなく。

 とりあえず二、三日安静の話をポップに伝えると、案の定ポップは盛大に不満を訴えてきた。しかしダイが強い口調でマトリフに賛同したため、拗ねた顔で渋々同意する。
 代わりにダイがマトリフに、明日からでも修行をつけてくれと申し込んできた。呪文の練習をしたいのだという。
 抜け駆けだと絡むポップを宥めつつ、真剣に頼み込んでくる顔にはマトリフと同じ考えが読み取れた。これ以上、ポップに無茶をさせてはならないと。

 多少無理をしたため、自分の安静のためにもマトリフは一足先にパプニカに戻った。修行をつけて欲しいにしても明日はまだ気が早い、明後日以降にしろとダイには言い置いて。
 そしてきっかり明後日、約束通りダイはマトリフの洞窟までやってきた。但し、まだ陽も上がって間もない早朝に。
「マトリフさんおはよーっ!!」
 朝っぱらから気合の入った挨拶で洞窟に入ってきたダイの元気さに辟易する。テランで見た時はそれなりにへばっていた筈だが、すっかり全快のようだ。回復力が違うのだろう。
「朝からやかましいな。オレが早起きの優良老人だからいいようなものの」
「すみません! でもじっとしてらんなくって!」
「あのバカはどうした?」
「ポップならまだ寝てます! ポップは朝遅いから当分はぜんぜん起きてこないと思う」
「だろうな」
 想像通りすぎて特に感想がない。

 ダイはマトリフに、紋章の力なしで自力でライデインを使えるようになりたいのだと相談してきた。
 正当な竜の騎士であるダイの父はギガデインまで自在に操っていたという。未だ成長途中のダイにとって、竜の騎士の完成形である父の姿は例え敵といえど大きな影響を与えたようだ。
 紋章が額に浮き出ていた時は自然と身体が動き出すようで、ライデイン等の普段は使えない呪文も問題なく使えていた。しかし拳に移動した今は、身体が支配されるような感覚が無くなって竜闘気を完全に引き出せるようになった分、呪文は自分の力で操らなければならなくなったという。
 しかしライデインは勇者の呪文と称される、魔法使いでも契約不能な呪文だ。マトリフも当然使用は出来ない。本人が契約済みの以上、自分が使えなくとも教えようは色々あるが。
 考えを巡らせるマトリフに、しかしダイは不可解な言葉を続けた。
「あとは雨雲を自分で呼ぶだけなんだ。ライデイン自体は、紋章なしでも成功したことあるんだけど」
「あ? じゃあ出来んじゃねえか」
「でもひとりじゃまだ出来ないんだ。今はまだ、ポップがラナリオンで雨雲を呼んでくれた時に、はじめて出来るだけなんだ」

 ラナリオン――天候系呪文で最も初歩の呪文。
 しかしこの際レベルは関係ない。天候系呪文そのものが、殆どの人間は契約に成功しないとされている激レア呪文だからだ。
 魔法使いの扱う外界に影響を及ぼす呪文は、起こす現象が魔法なしで再現が容易なものほど契約は容易い。天を操る天候系呪文はその意味で、完全に精霊の御業に踏み込む領域だ。しいて言えば神職から魔法使いに転職した人間が契約できやすいと噂されているが、その上で成功率も極めて低いらしい。当然だ、気象と魔法力の関連のさせ方などそうそう習得出来るものではないだろう。
 マトリフも契約出来ない側の人間だった。現存する呪文で契約に成功しなかったものなどほぼそれまで無かったのに、初めて精霊にノーと言われた。
 お前には天に触れる資格がないと言われたようで、かつて相当悔しがったのを覚えている。契約さえさせてくれりゃあ、オレの天才的な技術ならラナルータだろうがラナジリオンだろうが華麗に習得してみせるのにと。

 聞けばポップは、ダイの剣術では歯が立たず、紋章の力も思うように出せず、かといって鎧によって火炎呪文も氷雪呪文も閃熱呪文も効かないヒュンケルに対抗するため自主的に呪文契約し、ラナリオンをサポートに使ったライデインを提案してきたのだという。
「紋章が出た時にだけ使えたことのある呪文ぜんぶ言えって、前ポップに聞かれたことがあったんだ。自分じゃ覚えてないし、きっと気のせいだけど、じいちゃんがもしかしたらおれがライデイン使ったかもって言ってたこと教えたら、マジかよすげーじゃんって驚いてたんだけど。それで協力すれば出来るって思ったのかなあ。でも、なんで雨雲さえあればできるって分かったんだろう?」
「魔法力によって落雷を発生させるまでを考えた時に、雨雲を呼ぶ部分が一番難しいと理解してたんだろう。いつ起こってもおかしくない状態で現象を起こすことはさほど難しくない。つっても勿論、雷に関わること自体には契約っつー資格が必要だがな」
「おれライデインなんて契約した覚え無いんだけど……」
「父親の例もあるし、おそらくお前の場合は竜の紋章が契約書みてえなもんなんだろう。たぶんな。だが実際出来たんだろ?」
「うん。すごい大変だったけど。狙ったところに当てられるようになんなきゃ意味がないってポップが言って、地面に立てた杖に当たるまで朝早くから夕方まで練習したんだ。半日以上だよ。その間ずうっとポップは雨雲を上に出しっぱなしだった」
「……すげえな」
「だよね? ポップってすごいんだよね? うまく言えないんだけど、なんかすごいんだよ! たぶん天才だと思う! 何なんだろうあいつ?」
「どうどう」
 もどかしげに一生懸命主張するダイを宥めた。
 紋章を額に戴いた竜の騎士は、代々あらゆる呪文を使いこなす戦士と記されている。既に力に目覚めたダイの内にもその契約と技術が無意識下にせよ潜在している筈であり、だからこそ本能的にポップの異常性が分かるのだろう。
 自分の相棒が何となくやばいことは分かるが、どうやばいのか説明できないといった様子で唸るダイに「そんなことよりライデインだろ」と話を本筋に戻した。
 幸い雨雲から雷を引き出して狙った場所に落とす所までは習得済みなので、練習すればいいのは雨雲を呼び寄せる部分だけだ。
 おそらく本来のライデインでは、上空にずっと居座るほどの雨雲を呼んだりはしない。一瞬集まりすぐ霧散する程度呼べば十分な筈だ。
 かつて契約出来ないなりに理論上考えた天候操作のアプローチを教えて、あとはひたすらダイに練習させた。首尾は上々だ。そう時間を掛けず習得に至るだろう。昔取った杵柄がいつどこで役に立つか分からないものだ。

 昼飯を食べに一旦パプニカ城に戻るが一緒に来ないかとダイが誘うので、気が向いて同行した。ルーラの着地音で遠目から姿を確認したのか、呆れるほど嬉しそうな顔をしたポップが出迎えに駆け寄ってくる。最低でも今日までは魔法を使うなという言い付けを守っているのか、血で汚れて破けた普段の旅人の服ではなく、普通の布の服を着ていた。
 隣に並んだポップと憎まれ口を叩き合いながらダラダラ歩き出すと、先ほどから腹を慣らしていたダイは早々に痺れを切らし「おれ先に行くね!」と食べ物を求めて走り出した。
「食い物は逃げねえのに」ポップはおかしそうに笑ってその背を見送る。
「遅くまで寝てたお前と違って、朝早くから修行に励んでたからな」
「師匠が休めって言うから休んでたんだろお。明日はもう呪文使っていいよな?」
「まあいいだろう」
「やった。じゃあ明日はおれも早く起きるし」
「ヘッ。どうだかな。そういやお前、ダイから聞いたがラナリオンを習得したんだってな。そんなレア呪文どこで知ったんだ?」
 ついでのように聞いてみると、ポップはちょっと懐かしそうに、そして寂しそうに目を細めて言った。
「先生の授業だよ。世の中にある呪文は全種類、契約しなくても名前は知っとけって方針だったから。ヒュンケルに勝つ方法考えてた時、ポップならいつかラナの呪文も覚えられるかもしれませんから頑張ってくださいねって先生が冗談ぽく言ってたこと思い出してさあ。まさに今要るのはあの呪文だ!って思って。雨雲呼ぶだけの呪文なんていつ使うんですかって、当時はあんまり気にしてなかったんだけど……やっぱ先生ってすげえよなあ。いつか使うって分かってたみたいだもんなあ」

 アバンが本気でポップなら覚えられると確信していたのか、それとも本当に冗談で言っていたのかは分からない。おそらく半々というところだろう。少なくとも、その呪文がゆくゆくは重要なカギになるなどと予想して言った訳ではなかった……と思う。
 何故ならマトリフは昔アバンに「貴方ほどの大魔導士なら天候系呪文も使えたりしますか?」と目を輝かせて聞かれたことがある。契約できなかった事を渋々伝えると目に見えてガッカリされてムカついた。奴はマイナーな呪法マニアの上に派手な呪文が好きなのだ。自身も契約出来なかった天に干渉する魔法を実際誰かが使う場面が見たくてしょうがなかったのだろう。
 今まで出会った魔法使いの中で一番すごいと賞賛して憚らなかったマトリフも使えないとあって、遠い目をして諦めた素振りを見せていたが、規格外の弟子に出会って執念深く期待したのに違いない。
 だが何にせよ、事実ポップは天を操ったのだ。

 どんな感覚だったか聞くと「消費する魔法力はそれほどでもないのに全身の力が抜けるみてえでさあ。あん時のおれにゃちょ~っとハイレベルな呪文だったかも。一日ぶっ通しでやったおかげですっかり慣れたけど」とあっけらかんとした口調で語った。魔法使いとして無欲であることが契約の鍵なのかもしれないと思わされる無邪気さだった。

 次の日、早起きすると言っておきながら結局ポップはダイにかなり遅れてマトリフの所に現れた。すっかり綺麗になった見慣れた旅人の服を装備し、トレードマークのバンダナを締めて元気いっぱいに教えを乞う弟子の張り切りぶりを見届けてから、マトリフは背を向けて手を振る。
「オレは疲れてるんだ……また今度な」
 残念がってしょぼくれた声で見送ってくるのも束の間、周囲に轟いた雷鳴に飛び上がったポップは、なんだなんだと興奮した様子で音の出処を見に行った。
「あいつめ……ついにできたか」
 ニヤリと笑う。
 ダイは呪文に関しては剣術ほどトントン拍子にコツを掴めない性質だが、やはりお手本を目の前で見られたことは大きかったらしい。何事も闇雲に今ある技術を伸ばそうとするよりは、高みにある理想像を一度目にする事で成長度は飛躍的に上がる。

 マトリフは再び轟く雷鳴を背に、一人歩き出した。
 天の怒りを自在に操り、大地の形を変え、青い光で全てを滅ぼす力を持つことが許された、この世で一代限りの戦闘生物。
 例えその過ぎたる力がダイを幸福にするものではなくとも、それに耐え得る肉体をダイが与えられていることは確かだ。しかし、隣の相棒は違う。
 ダイの心を守るためポップは生命を捧げた。もう十分じゃないかと、マトリフは思う。これ以上の献身はない。
 これからもダイはどんどん力を増していくだろう。そしてダイ自身もそれを望んでいる。皆を守るために、そして何より二度とポップを死なせないために。ポップがもう、己の身を危険に晒す必要の無いように。だとすればポップは、それに応えるべきではないのか。

 しかしそれから数日もしない内に、ロモス武術大会で遭遇した出来事を報告しに来たポップが「フレイザードのフィンガーフレアボムズって技、前に話したじゃん? 指一本一本からメラゾーマ五発同時に出すってやつ。あれ何とかおれも真似してさあ、それでようやく超魔生物になったザムザにもダメージ通ったんだけどよお、ほんと並の呪文じゃ歯も立たなくって~」と愚痴っぽい口調で語った内容に、マトリフは頭を抱えたくなった。
 火炎呪文最上級のメラゾーマを連続使用するのではなく、同時に複数回分溜めて一気に放つ合成使用。禁忌の領域に踏み込む不自然の業火。
 広範囲に拡散しても衰えぬ異常な熱エネルギーを魔法力のみで生成する離れ業が、生身の肉体に影響を及ぼさないわけがない。おそらく使用した後、実際に反動となって呪法の影響はポップの身に現れたはずだ。
 しかしポップはそれを大した事と捉えてはいないようだ。実際、それをしなければ全滅するという追い詰められた状況において過ぎ去る苦痛を気にしている余裕などないのだろう。
 マトリフは己の見通しの甘さを痛感した。
 やはり、敵が強すぎる。つけた傷が自動修復される巨大生物など並の戦士や魔法使いでは太刀打ちのしようがない。それにダイが紋章の力を全て制御下に置けるようになった事も、単純なパワーアップとは言えない負の側面があった。しばらくは極端なエネルギーを意識的にどう扱うかに集中せざるを得ず、周囲に気を配る余裕など無いだろう。
 何よりポップは、そうした危機的な状況に対応出来るだけの素質があり過ぎるのだ。普通では無縁のはずの無理を、才能が可能にしてしまう。メラゾーマの威力を維持したまま発動前の状態で指の本数分溜めるなどという手品、並の魔法使いは何百回逆立ちしたって出来ることではない。だがポップにはそれを無理やり実現させてみせる技術と、センスと、頭の回転の速さがある。
 ただそこには自己防衛意識だけが欠けているのだ。必要に迫られる状況が訪れれば、ポップは何もかもを実行してしまう。精神の力だけで、肉体を置き去りにして。
 しかしそのままでは、いずれ同じ道を辿ってしまう事になる。どこかの手遅れの男と。

 禁呪による肉体への悪影響を指摘すると、ぎくりとした顔でポップは心臓を押さえた。そして不意の発作に喀血するマトリフを前に、強くショックを受けた顔で心細そうに心身を案じてくる。
 マトリフはそんな弟子の手を掴み、祈るように約束を乞うしか今は出来なかった。どうかこんな風にはなってくれるなと。

 だが心の底では、それで最早済む戦いではないのだろうという諦念のような予感がしている。
 只人の身でありながらポップはやはり、同じ場所へ立たざるを得ない定めなのだろうか。
 天を操って見せたように、大地を削り、閃光で全てを無に帰して、あの竜の紋章を戴いた騎士と同じ高みまで。そのように造られていない、脆い肉体のままで。

 まだ教えていないとっておきの呪文がひとつだけある。その背中をその場所まで押し上げてやれる、唯一無二の呪文が。
 才能は一級品だ。己の持つ中で最も難易度が高く、最も恐ろしいその呪文を、あの弟子ならばモノに出来る可能性は高い。
 だがどうしても、今はまだ早いという思いが捨て切れない。何より、どう考えても上手い教え方が思い浮かばないのだ。たったひとつ――絶対に避けたい覚えさせ方しか。

 一人洞窟の中、口元を汚す血を拭いながらマトリフは考え続けた。精霊はあの指先にあらゆる可能性を許している。だが己はそれを許すべきなのか。それは、許される事なのか?
 答えは分からなかった。マトリフに分かる筈もない。そんなものを知り得るとすれば、天より外には無いのだ。