やまねこのきもち

 外は寒いが、樺太アイヌの冬の家はやはり暖かい。
 大所帯でも泊めてもらえる事になった広い室内の中で、アシリパは鯉登と名乗った軍人をちらりと盗み見る。
 病室で昏倒している所を発見された。気絶させられていたが、それだけだ。
 尾形は結局、誰も殺さずに逃げたらしい。

『誰も傷つけずに谷垣を逃がしたそうだな。見直したぞ』
 いつかそう言った時に見せた、尾形の笑みの温度を覚えている。尾形の表情の意味はいつも分からないが、笑顔の理由はその中でも、一番分からない。
 何を考えていたのか。結局何ひとつ分かったことなど無かったのだと、今はそれだけがわかる。

 それでも尾形には、明らかに何も考えていない時、というものもあった。少なくともアシリパはそう思っている。ボーッとしていた、という形容すら言い表すのにはまだ足りない。本当に中身が”空っぽ”の時だ。そしてアシリパは、そんな尾形を構うのが嫌いではなかった。
 アシリパにとっては、沈黙の下に知らぬ過去や思惑を隠して何事かを考えている時の尾形よりも、ふとした時に現れるそういった……がらんどうの人形じみた尾形の方が、ともすればより”本物”なのではないかと感じられていたのだった。
 多分、そういう時の尾形はどこか獣に近かったからだ。たまたま尾形という名前の生き物であるかのように、言葉もなく何も表さずじっとして動かない。しかし何か顔に近づけると匂いを嗅ぐ癖だとか、動くものを目で追いかける癖があって。
 アシリパには人間よりも獣の方がよくわかる。そうやって言葉を使わずに、思った通りの反応が返ってくることで、尾形が少しわかったような気になっていた。そして、それがうれしかった。
 尾形はよくわからない、他にはいないような変わったやつで。だから、おもしろかった。仲良くなりたいと、思っていた。

 杉元と白石は口噛み団子が気に入ってしまったのか、すっかり上機嫌で酔っ払ってその辺に転がっている。
 尾形なら食べただろうか、と思った。
 初めはシサムに馴染みのない食べ物は拒否して食べなかった尾形だが、少しずつ色んなものを食べるようになった。特に樺太に来てからはようやく脳味噌も食べるようになって、いらないと言うことが無くなった。ただ、気に入っていたのかどうかは分からない。いつも美味そうな顔ひとつしたことがない。ただ無言で頬を動かしていた。この団子も食べるだろうか? 流石に拒否しただろうか?
 わからない。
 どういうつもりでそばにいたのか。こちらを見た時の、あの瞳の静けさ。何を思っていた? アシリパはそこにいつしか、安らぎすら見出していたのに。

 わからないのは、自分が尾形を今どう思っているのか自体がわからないせいなのかもしれない。
 アシリパは手にしていた団子を食べる気になれず、器に戻した。
 何故、と思う。憎いような気もした。怖いような気もした。悔しいような。悲しいような気も。
 あるいは、どれでも大した違いはなく……ただ、それらを押し込んでやりたいあの空っぽの姿がここにないということだけが、今は何よりも。

 ◇

 心地よい酩酊感の中、ここはもう日本なんだな、と寝っ転がりながら噛み締める。思えば白石にとって初めての外国、初めて踏んだロシアの地だった。といっても滞在したのは少数民族の住処ばかりだったから、ロシアというより日本でもロシアでもない場所、と言う方が正しいのかもしれない。
 それに、思い返すとあまり周囲の印象は残っていない。固まるように四人で行動していた。キロランケの説明越しに知る世界と、他の面子の顔色ばかりを見ていた旅だった。それは先導であるキロランケと得体の知れない尾形が完全に信用出来なかった、という不安からでもあるが、どちらかといえば他に拠り所が無かったからだ。戻っても第七師団、進んでもパルチザンで、前にも後ろにも行くのは躊躇われた。成り行きだが道連れになった、あの四人の奇妙な集まりしか確実なものは無かったのだ。
 長くは続かない。いつか何かが起こる。それが分かっているからこそ、とりあえずは続く旅以外のことはあまり考えないようにしていた。そうしながら何か変化が訪れやしないかと心の底で警戒し、顔色を窺う。そうして変化の兆しが未だ見えないことに安堵する。
 思えば途上でしかないその旅を、白石は惜しんでいたのかもしれない。前のことも先のことも考えずにいる時間を、しばらくは欲していた。
 キロランケが知恵を絞り、尾形とアシリパが狩って、白石はまあ、色々やる。そうやって異国の文化の話や、アシリパの父親の思い出話を聞きながら知らない国を歩く。北上するごとに色々問題は発生したが、ただ止まって進むだけの間、旅はとても穏やかなものだった。

 杉元と再会し、尾形とキロランケが共謀して金塊を狙っていたらしいと聞いても、白石はやっぱりな、と思うだけだった。そんな所だろうと踏んでいた。
 結局杉元も生きていたし、元々死んだと思っていたウイルク……“あの”のっぺら坊が二人によって殺されたと聞いても、白石にとってはほぼ他人事に過ぎない。自力では動けぬ死刑囚、どの道誰かがやったこととも思う。
 あの焼け爛れた顔も、皇帝殺しの指名手配犯も、死んだという事実でようやく多少身近に感じられる気すらした。それはキロランケの語ったウイルクという男……かつて二人の男が描いていた野望が、白石にとっては夢物語のように聞こえたせいかもしれない。
 民族。国。国境。二間もない狭い檻からいかに出るかということに心血を注いできた白石にとって、それらはまるで空気のような漠然としたものの話にしか思えなかった。そんな曖昧なものを本気で欲する人間もやはり曖昧なものにしか思えない。荒唐無稽さでは第七師団にしたところで似たようなものだ。
 大きい目標というのは、それだけ遠い目標ということでもある。はっきりしているのはただ、今すぐにはどうにもならないという事実。都合のいい考え無しには到底信用など出来ない、気の長い夢。そんなものよりもよっぽど、目の前にいる人間の方が確かだ。
 キロランケは、面倒見のいい男だった。人が好すぎたと言ってもいい。あのまま金塊を手に入れて、パルチザンとしての活動に戻って、キロランケは革命をやり遂げただろうか? それが出来る冷徹さがあの男にあっただろうか。白石には疑問だった。だがそれも今となっては、意味のない問いに過ぎない。始まる前に全ては終わってしまった。

 尾形は。尾形はどう思っていたのか。
 先の見えない旅だった。白石は当然パルチザンだの少数民族だののいざこざは知ったことではないし、父親が何者だったかすら知らなかったアシリパも同様だ。キロランケを信用していいのか、今後どう事が運んでいくのか、何も分からなかった。
 そうなると白石とアシリパよりも、ある程度キロランケと話が通じているらしい尾形の動向が、重要な判断材料になる……筈だった。しかし黙ってついてくるだけのあの男の微動だにしない無表情からはさっぱり何も読み取ることが出来ず、何の参考にもならなかった。
 キロランケにどういうつもりでついていくのかも分からなければ、キロランケをどの程度信頼しているのかも分からない。今後どうするつもりでいるのか、何を知っているのか、聞いても大丈夫なのかどうかも分からない。そもそも何から聞いていいのかも。
 思えば尾形という男はどんな面子になってもどこか浮いていて、それでいて存在感があった。そこにいる、というのが妙に自然というか、説得力のようなものがあるのだ。誰の隣に収まっていても、ああ今はそこにいるんだな、と有無を言わさず納得させられてしまう雰囲気がある。実際いると非常に助かる男でもあるので、結局何もかも聞けず仕舞いに終わった。

 せめて何か読み取れないかと様子を窺っていて気付いたのは、樺太の食事はあまりお口に合わなかったらしいということぐらいだ。
 クセが強えな、と白石も眉を寄せながら飲み下すようなものに当たった時、尾形の顔をいつもそれとなく確認した。尾形は眉一つ寄せずに食っていたが、心を無にした無表情の下で、よーく見ると口元や肩の強張りなんかに拒絶反応が出ていた。マズかったのだろう。
 嫌なら断ればいいものを、毎回勧められたら律儀に食べていた。そしてアシリパもそれが嬉しかったらしく、真っ先に尾形に食え食えと色々与えていた。不味そうな様子には気が付かなかったらしい。キロランケはそんなやりとりをいつも苦笑して眺めて、自身は食べやすそうなものだけを、尾形に勧めていた。
 尾形はおそらく、キロランケとは別口の金塊を狙う目的があったのだ。ついてきたのも、本当はキロランケにではなく、父親から金塊を託されたアシリパに対してだったのかもしれない。だとするとあれはやっぱり、頑張って食っていたのだろう。
 旅の間の尾形の様子を思い返す。口下手な子供みたいな塩梅だったが、一応尾形なりに信用を得ようと努力した結果だったのだろうか?
 とんでもない不器用だ。考えると可笑しくなる。革命だとか民族だとか、てんで問題外だったのかもしれない。

 尾形は浮いていて、皆と混じって笑い合ったりはしなかったが、自然にただそこにいた。今だけと分かっている和やかな旅の中で、キロランケもアシリパも白石も、何だかんだよく尾形を構っていた。むしろあの四人旅は、尾形の存在でバランスが取れていたような気もする。ずっと穏やかに思い出話をし合うには先が見えすぎていて、信じ切って進むには先が見えなさ過ぎた。
 信用し切れなくても、もっと信用できない尾形がいて。一人になっても、もっと独りの尾形がいる。そうやってキロランケも、アシリパも、白石も、少しずつ尾形を頼っていた。尾形はやっぱりそこにいるだけだった。四人の旅は、四人だけの時、本当に穏やかだった。

「なあ、アシリパちゃん」
 ふと呼びかける。思いの外酔いが回っているのか、呂律が回らなかった。
「なんだ。シライシ」
「樺太でさあ。あの四人で、旅してさあ」
 ぴくり、とアシリパが話の内容に反応する。顔が強張ったな、と思った。しかし何かそれについて思う前に、白石は続きを口にした。
「悪くなかったよな」

 そう、色々あったが、それだけは確かだった。それぐらいが確実に言葉に出来るすべてだった。
 あの四人での樺太の旅。悪くなかったのだ。色々見て、色々話して。たまに、家族みたいに馴染んでいた。

 アシリパは何か言おうとしたが、言葉が出なかったみたいに唇をぐっと引き結ぶ。代わりに器にあった口噛み団子を一つ引っ掴んで、白石の口に詰め込んだ。
「おぐッ」
「もう寝ろ! 酔っ払いッ」
 そう言うと背を向けて、足音荒く去っていってしまう。

 白石は団子を咀嚼しながらその後ろ姿を見送って、まだ早かったかな、と思う。
 そして、まだも何もないか、と思い直した。もうキロランケは死んだのだ。
 尾形もどこかに行ってしまった。あんな状態で、今頃どうしていることやら。屋根ぐらいは確保出来ただろうか。
 大の字に転がり、白石はあーあ、と篭った声を上げた。もちゃもちゃと噛んだ団子をごくりと飲み込む。泣けるほどうまい。
 これは多分、尾形は苦手な味だな、と思った。