”あれ”が現実だと、己の記憶だけで信じることが出来たかどうか。
しかし何かに自身の顔を映せば、あるいは舌先で頰をなぞればすぐにでも、何よりもの確かさで事実は証明される。
既に日本領の村で、ロシア人の店主が営む安宿があったのは僥倖だった。
ただ老いた店主はお喋りな性質らしく、客の顔を半分隠している覆いにも構わずどうでもいい世間話を振ってくる。
半ば無視しながら必要な事だけ喋っていたが、こんな所まで何の用だと訊かれ、気紛れに正直に答えた。人捜しの途中だと。
興味を引いたらしく、どんな相手かと問われる。知っている人間かもしれない、話してみろと。
ヴァシリは覆いの下で唇を笑みの形に歪めた。
「привидение(幽霊)」
冗談だと思ったのか、店主はあっけにとられた顔をした後、声を上げて笑った。ヴァシリも静かに笑ったまま、それ以上は何も言わなかった。
ヴァシリにとって、撃てる範囲にいる人間はみな動く的に過ぎなかった。
それは最早殺人ですらない。銃弾は例えるならば、杭のようなものだ。動く獲物に沈み込ませれば死ぬ。動かなくなる。それだけだった。
純粋な手段としての狩りは、そうすることが当然であるかのような儀式的行為と化す。実際戦場において、それは義務だった。
動く肉の塊に弾丸を打ち込むことがどれほど簡単で、獲物が死ぬということがどれほど単純な現象か。ものを投げれば落ちるように他愛なく小気味いい。暇潰しに撃つリスも人間も変わらない。遠いほど面白く、多いほど甲斐があった。
しかし自動的に動くに過ぎない筒先の向こうの世界から、初めてこちらを見返してくる“人間”に出会った。
つまりそれは、初めての“他者”だった。こちら側から覗くばかりだった一方的で単一的な風景の中、彼だけが生きた他者としてこちらを見、ヴァシリを反対に規定し、捉え、そして支配した。
あの男が実在したのかどうかさえ、消えぬ傷が無ければ獏として記憶の霧の中に実感ごと失せてしまっていただろう。ヴァシリは彼が齎した傷に感謝していた。
双眼鏡越しに垣間見えた闇の眸。あれほど静謐に、あれほど沈黙し、ヴァシリの向けた銃口の先からこちらを狙っていたあの狙撃手。
一晩中見ていた。だが彼は一秒たりとて、ヴァシリの獲物にはならなかった。
本当に生きている人間だったのかと、理性ではなく感覚から疑問が湧く。この指先がこれまでに屠った数え切れぬほどの生物、それらのものと彼は何もかもが違う。杭を打ち込まれて動かなくなる中身の詰まった肉の塊、彼はそんな愚鈍なものではない、もっと得体の知れぬ何かだった。周囲の空気から浮き上がったような存在の違和感。これまでのように銃弾を撃ったところで、その銃弾は彼をすり抜けてしまう。そんな予感がした。
しかし、だからこそなのか、彼の銃弾を受けて己の命の全てを掌握されたその瞬間、永遠に間に横たわる筈の人間と人間の絶対的な断絶……それが一足飛びに消え去って、内側へと入り込んだ感覚があった。最早彼は己よりも近い他者となってヴァシリの中に現れ、一瞬の邂逅の後、消えぬ空席を残した。奇妙な同一視。彼は相容れぬ他者でありながら、“私”だった。私は彼の全てを知っている、そんな感覚、いや実感が強烈に宿り、何かを植え付けて何かを奪っていってしまった。
あれ以来ヴァシリの世界は違うものになった。この世でひとつだけ知っている生物、それが真に実感できる感覚のすべてになり、あとのものはすべて今まで以上の無機的で空疎な塊に過ぎないものになった。しかしそのたったひとつだけが、ヴァシリに生きているということの本当の味を教えた。それはそれまで知り得なかったすべてだった。何もかもだった。
あれからヴァシリはずっと、殺すという行為の中身について考えている。この世の全てを引き換えにしても彼を殺したかった。そしてそれはこれまでのような、肉の塊の奥に弾丸が打ち込まれて見えなくなるだけの無味乾燥なものであってはならなかった。
熱と共に射出された弾丸が、皮膚を破り肉を裂いて骨を砕く。そうして肉体という彼の形が、取り返しのつかない有様で壊れていく。その過程を、内実を知らなければならない。記憶の中のあの冷たい肌の色。そぐわぬ鮮血の色をそこに思い描く。それは狂おしい想像だった。したくてたまらないのと同じだけ惜しくてたまらなくなる。彼が生きているということが侵し難いほど素晴らしい事に思えてならなかった。
彼を殺したい。そのために、彼が生きているという事を、その実際を知りたい。五感の全てで彼の命を確かめたい。血の通うその肉体に触れて、手にとって、噛んで舐めて嗅いで食んで飲み込んで犯して、壊したい。壊して壊し尽くしたい。
そしてその果てにある彼の死に、魂に、直接この手で触れることが出来たなら。
ヴァシリは祈りのような真摯さで夢想した。
私はその時、この世の総てをも手にするだろうと。
