煙草入れは食べない

 ニヴフのアザラシ猟は、伝統的な銛を使った方法もあるが、最近は専ら銃を使う方が主流らしい。呼吸のため流木の上等に上がってきたところを狙い撃つ。ただ銛と違って、銃だと撃った後に海中に没するため、船上でなければ引き揚げるのは難しい。
 この男は銃の名手だと売り込んで乗せて貰った船の上から尾形が立て続けにアザラシを仕留めると、ニヴフの住民たちもその腕に感心する素振りを見せた。
 交渉の結果、食用になる肉や脂は乗せてくれた船頭に渡し、皮だけすべて売り物としてこちらが貰うことになった。着いて早々だが、これでひとまずの路銀は確保できる。
「アザラシの皮って売れるの?」
 白石の問いにキロランケは解体の手を止め、額を拭いながら答えた。
「ああ。この地域の衣服は殆どアザラシの皮で出来てる。防寒性が高いんだ」
「へえ~」
「解体が終わったら、量があって重てえから俺と尾形で売りに行く。その間、白石とアシリパには別で頼みたい事があるんだが」
「なんだ?」
「馴鹿に括りつけて持ってきたジャガイモがあるだろ? 俺たちで食べる分を少し残して、残りを売りに行ってくれないか」
「え? ジャガイモって売れんの? なんかすげーいっぱい持ってくなと思ってたけど」
「ああ。ニヴフでは畑作の習慣が無いんだ。珍しいから、わりといい値で買ってくれるらしい」
「へえ。芋なんて簡単に出来そうだけどね」
「ニヴフの文化では、大地を傷付けることは罪だと考えられている。だから農業を始めさせたいロシアと、今も揉めている」
「じゃあこないだのオロッコみたいに、ここも土葬じゃないのか?」
「火葬が基本だな。あるいは風葬だ」
「中々難しいもんだねえ、文化が違うってのは」
 白石が感心しながら言った背後で、べちゃ、という大きなものを落としたような音がした。三人で振り返る。
 ニヴフが数人がかりでアザラシを移動させるのを見ていた尾形が、一人でいけると思ったのか、持とうとして落としたらしい。
「尾形、一人じゃ無理だ重いから」
「大丈夫か? 泥んこにならなかったか?」
「も~運びたいなら手伝ってって言わないと~」
 寄ってたかって言われた尾形は、心なしかばつが悪そうに、黙って自分の頭を撫でた。

 皮だけでも、きちんと鞣したわけではないから数枚合わされば重たい。
 二人で抱えて買い手の所に向かう途中、空に伸びる煙を見た。
「ちょうど、どっかで葬式をやってるみたいだな……」
 尾形は何も言わずにその煙を見上げていた。

 まとまった量の持ち込みに、買い手の男は嬉しそうな顔をしていた。しかし中身は無いのかと、少し残念そうに聞いてきた。食用として買いたかったらしい。
 皮だけだと謝ると、鷹揚に頷いて、計算をするから少し待っていてくれと奥に引っ込んだ。
 キロランケは辺りを眺めていた尾形のそばに行って、暫し待つことを伝える。
 ふうん、と相槌をうった尾形は、キロランケを見上げて不意に尋ねてきた。
「文化ってのは、そんなに大事なものかね」
 漠然とした問いに、キロランケは面食らう。ちらりと尾形が見ていた方に視線をやると、先ほどの煙が見えた。アシリパ達に話したニヴフの習俗の説明も耳には入っていたようだし、尾形なりに思うところがあったのかもしれない。
「……当たり前だろ」
 キロランケの答えはそれしかない。尾形は真面目な顔で問いを重ねる。
「働いて食って死ななきゃならんのはみんな同じだ。あるもんを食わなきゃ飢える、死体はそのままだと腐る。対処の方法が違うものに変わったところで、慣れればそういうもんだと思うだけじゃないのか」
 素っ気ない口調だ。冷たいとも言える意見に、キロランケは少しむっとした。
「そもそも、変わる必要なんか無い。少数民族たちは、彼らなりに最適な生き方を見つけて独自に暮らしているんだ。その積み上げてきた文化を壊して、勝手に自分たちの価値観を押し付けておきながら、自分たちが変わる必要はまったく無いと思っている……そんな身勝手な大国の都合に従って彼らが生きなければならない謂れは無いはずだ」
「確かにごもっともだ」
 尾形は肩を竦めて、だが、と続けた。
「どういうつもりで他人の葬式にケチつけるのかなんて俺にはわからんが、ロシアの武力と容赦のなさは知ってる。従わなきゃ殺すと言われたら、弱い少数民族は逆らえないだろう。不当だと嘆いたところでそれが現実だ。世の中ってのは平等には出来てないんだからな」
「そんな世の中は間違ってるだろう。だから俺たちは……」
 言い返しかけたキロランケは、あることを思い出し言葉を止めた。
 第七師団に所属した者が、一度は耳にする噂。

 ――師団長殿には適齢の息子がおり、優秀な成績で士官学校を卒業して、少尉としてこの師団に配属されている。しかし実は師団長殿にはもう一人、妾に産ませた同年代の息子が居て、嫡子と同様にこの師団に配属されているのだ。
 だが正式に息子と認められてはおらず黙殺されている。母親は芸者だったらしい。何か正式に妾にも出来ぬような事情があったに違いない。
 ここだけの話、その息子本人にも、いろいろ噂が絶えないのだ。名は――

 キロランケは少し視線を彷徨わせた後、抑えた声で言った。
「……強制された環境で、仕方ないと諦めて生きる人生は不幸だ。せめてこれからの子供……息子たちにも、そうなって欲しくない」
 尾形は小さく笑って髪をかきあげた。からかうような笑みだった。
「そのためにあんた自身は家族も生活も捨てて、追手から逃げ続ける人生を送るわけだ。やりきれないな。そんな世の中、間違ってるんじゃないか?」
「俺は自分でこの道を選んだんだ」
「支配なんて無ければ、選ぶ必要もなかったのにな」
 わざとなのか、珍しく労わりじみた甘さを声に滲ませて言う尾形の表情には余裕がある。どうにもこちらの分が悪い。必要最低限の事しか話さない割に、たまに喋ると核心を突くことを言うような所が尾形にはあった。
「……少なくとも、諦めちゃいないさ」
 苦し紛れにそう言って、モヤモヤとした思考が絡まる中、ふと尾形の頬の汚れが目に留まる。キロランケは何も考えずに手を伸ばして親指で拭った。先ほど跳ねた泥だろう。肌が白いから目立つ。そうして拭ってから、しまったと思った。大の男を相手に、あまりにも気安く触ってしまった。
 しかし尾形は平然としてされるがままになっている。見ていて何となく思うことだが、おそらくこの男は周囲に対して、期待というものを全くしていない。何かをされることも、何かをされないことも。
「……泥がついてた」
「そうか」
 ついていた泥はすぐに取れた。白い頬は餅のような手触りだった。思わず不必要に指先ですべすべと撫でてしまったが、尾形は表情を変えずにこちらを見ているだけだった。
 その無防備な様子はどこか、ものを知らぬ子供のように見える。不意にキロランケの脳裏に、冬の寒い日、外から帰ってきた息子を膝に乗せて、その冷たい頬を掌で包み込んだ時の記憶が蘇った。氷のようになっていた柔い頬を、暖めてやろうとしたのだ。
 鈍く、重い痛みが胸に過る。
 囚われた感傷を誤魔化すように、両手で尾形の頬を挟んだ。むにむにと寄せると、流石に嫌そうな顔になって叩き落された。

 計算を終えた男は、報酬と一緒に二人分の煙草をくれた。ニヴフはアイヌ同様、煙草が生活に深く密着している。
 手の中の煙草をしげしげと眺めている尾形に、ふと思い出してキロランケは声をかけた。
「そういえば、網走でお前の出自について何か知らないかと土方に訊かれて、お前と師団長の関係を喋っちまった。悪かったな」
 尾形は目を丸くして、それから短く声を上げて笑った。
 ちょっと小馬鹿にしたような笑い方だったが、どうでもいいという意図を示すように手の中の煙草をぽんと雑に投げて寄越してくる。
 受け取りながら、前に煙草を勧めた時も断られたことを思い返す。
「煙草、嫌いなのか?」
 訊くと、尾形は興味無さそうに煙草を見下ろして言った。
「くさいから」
 その言い草が妙に子供っぽかったので、キロランケは笑ってしまった。