朝、今日の日付を見た時、何か引っ掛かるものがあった。
しかしそれが何かは後一歩思い出せない。
モヤモヤした心持のまま支度をした。
「おはようございまーす」
いつも通り挨拶してきた龍太郎の顔を見て、ふと何かを思い出しそうになった。
動きを止めた俺を見て、不思議そうに首を傾げた龍太郎は「どうしたんスか?」と訊いてくる。
その様子があまりに平静なので、一瞬抱いた引っ掛かりは、水にさらした砂糖のように溶けていってしまった。
「……何でもない」
釈然としないものを抱えながら、その日の仕事を始めた。
午前も、午も、午後も、何もかもが平生通りだった。
後片付けを終えて帰り支度をするイシさんを、今日の飯もすばらしかったと褒めちぎりながら龍太郎が見送っていく。
束の間しんと静かになった診察室で俺はまだ考えていた。
喉に引っ掛かった小骨のように違和感がわだかまっている。
あと少しで思い出せる気がするんだが。
今日の日付。祝日? 記念日? ――何の?
見送りから戻ってきて、どこか満ち足りたような顔で龍太郎はいつものように勉強道具を準備し始めた。
そのとても小さな物音と、ささやかな動作を眺めていて、ふと閃いた。
いきなり手首を掴まれてまん丸くなった大きな目に向かって、確信を持って言う。
「誕生日か」
龍太郎は目を見開いたまま固まって、しばらくそのまま見つめ合った後、その顔が急に真っ赤になった。
「え、な、なんで……」
「お前の健康診断をした時に見た」
正確には他にも見る機会があったかもしれないが、記憶に一番残った情報源はそれだった。
まあ見たところまず健康体だろうが一年に一度はこの診療所に居るからには診ておく、ということで基本的な身体検査を一度した事があるのだ。
結果はやはり健康そのもので、その時に確認した生年月日に、誕生日は遠いな、と何気なく思ったのだった。
「なんで言わない?」
「え、えぇ? 言うって……誕生日を?」
「ああ。お前なら、誕生日にかこつけてイシさんにご馳走でもねだりそうなものだが」
「べ、別にねだらなくたって、イシさんのメシはいつもご馳走ですし」
目を泳がせながら言い訳する龍太郎は、今にもこの話を打ち切りたそうな風情だった。
しかし俺に手首を掴まれているので、居心地悪そうにもじもじしている。
「忘れていたわけじゃないんだろう?」
なんとなく、今日一日の龍太郎の様子を思い返してそう思った。
どこか、周囲と隔てた膜の中でしみじみと自分の周りを見渡すような、大人しい雰囲気があった。
「そりゃあ、覚えてはいましたけど……」
龍太郎はばつが悪そうに目を逸らす。
「二十六にもなって、誕生日もなにもないでしょ」
「そうかもしれないが……意外だな」
「……何がスか」
「お前なら、自分の誕生日は今日だと触れ回って歩くタイプだと思っていた」
「な、なんですかその恥知らずなイメージは」
「恥か……」
俺はふと腑に落ちて訊いてみた。
「恥ずかしいのか?」
図星のようで、龍太郎はふてくされたように赤い顔を逸らした。
「……特にめでたいってわけでもない日に、そんな浮かれられませんよ」
それが自明のことのようにハッキリとした言葉に、俺は面食らった。
「先生、気づかないでくれたら良かったのに。それで、いつか誰かの誕生日の話題になった時に、俺の誕生日はとっくに過ぎちゃいましたって言って、それでおしまいにしたかったのに」
所在無げに視線を落とす龍太郎は、本当に恥ずかしそうだった。消えて無くなってしまいたそうな、頼りない風情だった。
「別にめでたくないのに、義務みたいにおめでとうって言わせるのって、申し訳ないし……」
ふと、龍太郎が泣いてしまうんじゃないかと思った。
こいつは誕生日にあまり良い思い出が無いんだろうなとも。
気づけば俺は龍太郎を腕に抱いていた。俺は自分自身に、他者をこういった方法で宥める能力が備わっていたことに驚いた。
「気づいて悪かったな」
淡々と謝ると、龍太郎はやはり居心地が悪そうに、しかし困ったようにごにょごにょと「いえ……」と言って恐縮した。
「……なんか、ちょっと八つ当たりでした。ごめんなさい」
謝意を表すように背に手が回る。
その慣れたような仕草に、こいつはドイツ生まれだったな、と思い出す。
せめて幼い頃は、異国の地で幸福に誕生日を祝われたことがあったのだろうか。あると思いたいが。
「めでたいかどうかは、お前だけが決めることじゃないと思うぞ」
「……はい」
「来年は前もってイシさんに言うといい。盛大に祝ってくれるだろう。俺の誕生日にも豪勢な飯を振舞ってくれるからな」
「……先生の誕生日っていつですか?」
俺は素っ気なく日付を口にした。それこそもうめでたいとも思わない、何でもない日付でしかないが。
「……もうちょっと先っスね」
「ああ」
「……その日になったら、おめでとうって言います」
俺は呆れて龍太郎の髪を掻き混ぜた。
龍太郎自身も矛盾しているという自覚があるらしく、さっきとは違うばつの悪さを漂わせて俺の胸元に顔を伏せている。
恥じ入るその赤い耳を摘みながら、俺は何の捻りも無い言葉で言った。
「誕生日おめでとう」
「……ありがとう、先生」
小さな声で言って、龍太郎はぎゅうと俺にしがみつく。いじらしい仕草だった。
二十六年。一人の人間が健康に生きてその時間を経ることは、決して簡単なことではない。ましてや国を移り、医者の道に進み、確かな知識と資格を持って龍太郎が俺の前に立つまでの時間と思えば、それは俺からすればどれほど得難い二十六年だろう。腕の中にいるのはその結晶だ。
めでたくないわけがあるか。
いつもと変わらない日常をひとつひとつ数えるように、ひっそりと大事に仕舞うような今日の龍太郎の様子を思い出す。あまりにもささやかな。
いつか分からせてやれる日が来るだろうか。
俺にとって今日がどんな日かを。
