何も知らないのではないか、と。
龍太郎がここに来てそう経たない内に覚えた疑問は、来るまでの経緯を本人に尋ねることで、あっさりと明らかになった。
「ここに行け、ってこの地図渡されて。それだけっス」
当時のことを思い出しているのか、拗ねたような顔で目を逸らしながら一枚のメモを見せてきた。
そこには本当にこの診療所への行き方が書いてあるのみだ。他の情報は何もない。
龍太郎は何か思い至ったように、おずおずとこちらの顔を見上げてきた。
「あのー……」
「……何だ」
「先生って……なんてお名前なんでしょう?」
聞き忘れてて……と、取り繕うようにヘラヘラ笑いながら頭を掻く龍太郎に、頭痛がしそうだった。
「……神代一人だ」
かみしろかずと先生、と呟くように繰り返して。
龍太郎は無邪気な顔でニコッと笑った。
「ハイ! 覚えました」
俺は稀に見る脱力感に襲われながら、久しぶりに呼ばれる己の名に、呼ばわった相手の顔を思わずまじまじと眺めてしまった。
*
ドクターK、と。
高品氏がその名を口にした途端、カンファレンスの場が波打つように騒めき立った。
「私とドクターKとの関係は……諸君にも折を見て話していたのでわかっているとは思う」
その言葉を証明するように、いかにその存在が高品氏にとって、そして医療界にとって大きなものだったのかを、医局の面々は確かめるかのごとく口々に囁きあった。
知っているのだな、と思う。
この病院を束ねる院長がどういう医者であるのか。どういった半生を送ってきたのか。何がその情熱を支えているのか。
大病院でありながら統率の取れた構成員皆がその存在を深く胸に刻み、精神的支柱として信を置いている。
そしてその統率から、龍太郎はあぶれている。
引導を渡しても構わない、と言って高品氏は龍太郎を俺に託した。
俺は今だからこそ分かるが、学部を出て研修医になったばかりの医者がどの程度の知識と技量しか備えていないものなのかをきちんと把握していなかった。
その気のないまま、俺は実際に龍太郎に引導を渡していてもおかしくない振舞いを数多くした。
技量の分からないまま、監督もせずにカテーテルを一任したこと。
どの程度の診察やコミュニケーション能力があるのかも見定めないまま、案内も付けず往診に送り出したこと。
精々、村の者から厳しい目で見られる程度だろうと思っていた。
もし違和感を気のせいだと思ったまま龍太郎が帰還していたら、滝沢さんは命に関わっていた。
劇症型心筋炎は熟練の医者でも見抜くことは難しい症例だ。決してミスとは言えないが、唯一気づける機会が龍太郎の手に渡されてしまったことは事実だ。それを見過ごしてしまったとして、龍太郎は責任を感じただろう。一人でその後悔を背負い、龍太郎は医者を続けることが出来ていただろうか。おそらく無理だっただろう。いい加減なようで、生真面目と言っていい潔癖さもある性格だ。
まだ信頼関係も出来ていない段階で、自責の念で潰れる龍太郎を俺が立ち直らせることが出来たとは思えない。
龍太郎が今も俺の下に居るのは龍太郎自身の力だ。俺はただ、運が良かった。
そして高品氏は。
自身がどういう医者で、どういう人間なのかを伝えず。龍太郎がどういう医者で、どういう人間なのかを分からず。知らぬ間に俺の匙加減ひとつでその行く末が決まって。
それでよかったのだろうか?
自分の生きる世界からその存在を弾き出して、知らぬ間にすべてが終わり、違う世界からその便りが届くことを待ち望んでいたのか?
あいつは今も何も知らず、村の人のために駆けずり回っているだろう。
重要な話はやはり彼を来させた高品氏自身の口から説明してもらいたいからと、村の人間にはずっと俺の素性や村の特性について秘匿させている。
だが何も知らなくても、ただ一人の医者と高齢者たちの住む田舎の村だとしか思っていなくても、龍太郎は真面目に一生懸命仕事をした。
慎重過ぎるぐらいに丁寧に診察をして、親身過ぎるぐらいに人の話を聞いた。
人のために走ることを当たり前と思っている人間だった。
そういう人間が息子なのだと。欠片も知らないのだろう。
何も伝えていない負い目、また、その存在について何も知らないのだから仕様がないという侮り。
いつだったか、自分の娘が医者を志していることに難色を示していた大垣氏の様子を思い出す。
高品氏も似たような心情なのかもしれない。人命という計り知れないほど大きな責任を背負い、いずれ取り返しのつかない傷を負うぐらいならその道を歩まないで欲しいと願っているのだ。
すでにその息子が何人もの命を助けているなどとは夢にも思わずに。
それが親心であると言うのなら、俺の知ったことではない。
「〝K〟とは、いわば称号だ。現在それを受け継いでいるのが、こちらの……神代一人先生だ」
高品氏によって、俺自身の名が呼ばれる。ドクターKの名と共に。
一つの名しか知らない龍太郎は、今視界に映っている二つの名を知った人間たちよりも、俺のことを知らないのだろうか。
――馬鹿げている。
提唱する治療法の構成を頭に描きながら、テーブルに手をつき立ち上がった。Kとして使命を果たすために。
その裏で俺の胸の内を掠めていったのは、怒りのような何かだった。
