閉塞する夢

 負い切れぬ責を負った人間は、現実から出て行くしかないのだろうか。
 痛いほどきつく抱かれた背が軋む。尾形の肌蹴た胸元に顔を埋めている父……花沢幸次郎は、何か好ましい匂いでもするのか、深く息を吸い込んでは満たされたかのような吐息を漏らした。肌にかかる熱い息がくすぐったい。
 父は初めてまみえてからというもの、可能な限り尾形をそばに寄せたがった。合間を縫って呼び寄せ、その度にこうして執拗に身体に触れる。縋るように、溺れる者が藁を掴むように。
 今、彼にとって尾形は唯一の所有物であり、別の立場と意思を持って責めては来ない、安全な他者なのだろう。
 二〇三高地の甚大な被害で、作戦の参謀長であった花沢中将殿は針の筵だと鶴見中尉から聞いた。国内でもその責任問題で紛糾しているという。そういった現実のあれこれについて、父が何かを尾形に言うことは無い。尾形の存在は父にとって現実ではない。その逃避先だ。
 赤の他人でもない。家族でもない。共有した過去もない。偶然存在する付属物……逆らわぬ他人未満。精神安定剤として、体よく利用されているのだ。そんなことは尾形にも分かっていた。
 軽んじられていると、憎むべきなのかもしれない。これまで舐めた辛酸のために怒り、拒むべき相手であるのかもしれないとは。
 しかし尾形はひとりの人格ある個人として恨めるほど、目の前の人をよく知らない。捨てた息子へ今になって依存する父を前に、尾形の胸を満たすのは、思いがけない充足だった。己から与えられるものがあることが、ただ嬉しかった。
 必要とされている。
 例えそれが男でも、女でも、息子でもない、肉としてであっても。

「ふ……ッ、……ッ」
 侵入ってくる感覚に、口を両手で塞いで声を抑える。腰が勝手に浮き上がり、挿入を助けるかの如く迎え入れた。
 硬い陰茎を、ひくついた中が飲み込むように味わっているのが自分でわかる。何度か揺すって前後しながら進んでくる度、傘の張った部分が内側の肉を刮ぐように通って、強い悪寒のような快感に浸されて尾形の目に涙が滲んだ。
 この不毛な逢瀬を重ねるごとに、父の愛撫には執拗さが増している。追い立て、責め立て、深い所へ落とそうとするかのような手管。悦ぶ肉体……その受容を、父は欲しているようだった。すべてを征服された存在である態度を。
 しかし尾形の内には抵抗が。こんな行為は、もっと、物のように、義務のように受け容れたいのに。苦痛だろうと構わない……そういう、純粋な奉仕でありたいのに。

 口を塞いで嬌声を抑える尾形の手を、父の手が外させようと掴んだ。首を振って拒否を示すが、力の入らない手は呆気なく屈する。父の手は熱く、大きく、よく日に焼けて浅黒い。掴まれた尾形の手が、薄暗い視界の中で青白く浮き上がって見えるのに対し、まるで父の手だけが血の通う本物の人間の手であるかのように見える。
 知られた弱い場所を小刻みに突かれ、ぞわぞわと湧き上がる感覚に全身が総毛だった。
「あっ、あ、あっ」
 緩み切った声が出てしまう。そこには、隠し切れない喜色が滲んでいた。
 きっと己はおかしいのだと、尾形は思う。実の父に抱かれてこんなにも悦んでいる。それが肉体的な反応だけではないことを、もう否定できない。
 夢中に求められることが嬉しい。出逢った事のないその身体と触れ合うことが、嬉しい。何もかも、あってはならない行為だと分かっていた。

 熱い手が、愛おしんでいると錯覚する仕草で熱心に頬を撫でる。たまらなく気持ちよく、恍惚と擦り寄った。
 乾いた土に水を吸い込むように、どれほど触れられてもまだ足りず、体の全てに触って欲しいと願う。父に触れられると、これまで勝手に動いていた己の身体が、生きてそこに“在る”のだと初めて知れる気がする。
 ゆっくり円を描くように腰を揺すられ、尾形は啼いた。突き上げる強い快楽に背が撓る。
「あ、あああっ♡♡ や、それ、だめ、ですっ、……ちちうえっ」
「そうは、見えんが」
「んあっ、あ、ああッ♡♡」
 きゅうきゅうと、父の形がありありと分かるほど締め付けるのが自分でも分かって、羞恥にあえぐ。頭が混乱する。こんなのはだめだと思う。茹だった頭で大事なことを考えようとする。自分が誰なのか、相手が誰なのか、自分はどう振舞うべきか、何を我慢して、何を妥協するべきなのか、
「百之助」
 低く呼ばれ、強く最奥を突かれ、尾形は広い背に縋り付きながら吐精した。

 甘く怠い腰を撫でる手が心地良い。父の腕に抱かれ、このまま眠って目覚めたくないとすら思う心地良さに微睡んでいた。
 しかしもうそろそろ退出しなければならない。無言で身を起こす尾形の腕を、しかし父の手が掴んで離さなかった。
「父上……時間、ですので」
 囁く尾形を、しかし父はもう一度抱き寄せた。
「行くな」
 困惑して黙り込む。このまま尾形が戻らなければ、どうなるか……父も分かっている筈であるのに、何故そんなことを言うのか分からなかった。
「ここにいろ。私のそばに、ずっと」
 腹の辺りに顔を埋めて言われた言葉に、胸の裏が引っ掻かれて傷付いたような痛みを感じて、尾形は少し動けなくなる。
 叶わないことを言葉にするのは残酷なことだと、分かってくれないのは……あの人と同じだなと思った。
 尾形には返せる言葉が無かった。だから父の頭を柔く撫でる。尾形の顔を伺うように上げられた面に顔を寄せると、唇を合わせた。
 触れるだけの、しかし二人の間では初めての行為に、父の力が緩む。
 知らない人間の味がした。
「失礼致します」
 尾形は囲う腕をすり抜けると、閉ざされた閨を、音もなく辞した。まるで、自分が幽霊になったような気がしている。

 ◇

 大きな掌で包むように耳を塞がれながら舌を吸われると、頭の中で水音がくちゃくちゃと反響して、脳を犯されているようだった。
「んっ、んむぅ、っは、あ、っふ」
 頭がぼうっとして、背筋がずっとゾクゾクして堪らない。肌に触れられるよりもずっと近く感じた。内側に入り込んで、もう離れられないほど近くに。
 前回別れ際に接吻したのは尾形の方だが、あれから再びの逢瀬の今、父は貪るように尾形の口腔を犯していた。
 会う度に少しずつ箍を外していくような関係が続いている。手探りで開いていない場所を見つけ出しては暴いていくような。そうした先に何を求めているのだろう?
 敏感な舌でお互いをなぞり合い、味わって、芯までどろどろに溶かされたような陶酔の中で、少し性急に貫かれた圧迫感と、酸欠気味の息苦しさが合わさって、頭の奥が痺れるような酩酊感を齎す。
 父の首に縋り付いて夢中で応える最中、その瞳の中に映った己の顔は、どろどろに蕩け切って見るに堪えないほどだった。欲情し切っていた。
「百之助……この私が、好きか」
 あやすように腰を揺すられて身悶える。
「はぁっ、あ、はっ、はいっ……好き、です……ッ♡」
「私に、こうされるのは」
「んんっんッ♡ っぷは、あ、あ、好き、好きですっ、これ、すき……っ!」
 口を塞ぐ合間に答えを求めてくる父は、そうしながら尾形の善い所ばかりを突いて離さない。溺れそうになりながら、父の腰に脚を絡ませてうわ言のように好きだと囁き続ける。内部を犯す熱いほどに勃起した男根が、耳へいやらしく声を注ぐ度に硬くなるのが感じられるようで、尾形は恍惚とした。
「アッ! あ、あ♡♡ く……るっ、ちちうえっ、父上ぇ……ッ」
 息を荒げる父に自分から口づけ、舌を絡ませる。幸福になる。気が狂いそうだった。
 強く身動きできないほどに抱きしめられ絶頂を迎える。合わせた唇の間から漏れた苦し気な吐息には、どうしようもない思慕が滲んでいた。

 手を床に縫い付けられて、ゆるゆると犯す動きは優しいのに、もうひどく達しやすくなってしまって、不意に訪れる絶頂が自分でももう予測できなくて、こわくて首を振ることしか出来ない。
「あ、あう、っや……帰る……かえり、ます、……ひっ、あ、あ」
 顔を歪めて、尾形の腰が浮き上がる。また逝った。
 父の肩にかけられた脚の先がきゅっと丸まる。その瞬間だけ甲高くなる声は媚びているように甘ったるく、拒否する言葉にまったく説得力を与えてはくれなかった。
「まだいいだろう……まだ時間があるはずだろう」
「父上……ッ」
「お前の中は本当に……心地が良い。ずっとこうしていたくなる……」
「……ッ! ……ッ♡♡」
 耳に吹き込むように父の重い声で囁かれ、奥をぐっと押し込むように圧迫されて声もなくまた達した。精も出さずにはくはくと父を締め付ける感じ入った身体の反応に、低い笑い声が鼓膜を揺らした。
 ぐずぐずになった意識が溶けて、快楽からか苦痛からか分からない涙が目尻から落ちる。
 父はその涙を舐めて言った。
「帰る場所など、私の許にすればいい」
「あ、あ」
 きゅんきゅんと下腹が疼いた。締め付ければ更に疼いて、泥濘に足をとられたように、悦楽から、抜け出せなくなる。
 余裕を無くして父を見上げる。離してほしいのか。助けて欲しいのか。分からずにいる尾形に、父はどこか怖い顔で、重ねて命じる。
「まだここに居ろ。居られる限りは私のそばに居たいと思わんのか。お前は私にまだ、何処か距離を置いている。私はお前を離さん。お前は私を欲してくれないのか。百之助」
「……俺は……」
「お前が必要だ」
 尾形の目から、ただの涙が落ちた。
 そして頭の中にすとんと、行動によって精神に働きかけるひとつの解決法が落ちてくる。
「父上……、首を……」
 霧がかかったような霞んだ理性でねだる声は、聞いたこともないほど甘く掠れていた。
「首を、締めて頂けませんか」

 父を求める許しがほしい。

 ◇

 どくどくと脈打つ血液が狭い場所から外に出たがって暴れている。冷えていた身体が急にとても暖かい場所に晒されて解けていくような恍惚を覚える。どんどん大きくなった鼓動が大きくなりすぎてやがて聞こえなくなって、意識の形が崩れてなくなるような空白がきて、その無我の最中で絶頂を迎えた時、この世のものではないものが見えた気がした。

 ◇

 白い肌など女でも男でも珍しくは無いが、この肌は、やはり他には無い色味だと……指でなぞりながら幸次郎は思う。所々に薄青く透ける血管に、濁った乳白色が寒々しい。健康な若い女の桃のような血色のいい肌に比べて、冷たい石のような、硬質な白色。生きている物の中では浮き上がって見える異色。
 一度目にすれば忘れぬ。そして一度触れれば、尚のこと。
 項の線を確かめるように撫で上げて、前後する形のいい頭を掌で撫でる。
「ん、ちゅ、……ふっ、……んっく、ん、……れろ、ちゅ、ちゅる」
 口内の粘膜を張り付かせるようにして強く吸い込み、舌を絡ませる。熱い口腔と溢れた唾液が疑似的な性交の感覚を齎す。
 上顎のごろごろした箇所を亀頭が往復すると、気持ちがいいのか時折鼻にかかった声が漏れる。行為には懸命さが滲んでいた。
「上手だな」
 褒めると、涙の滲んだ目が幸次郎を見上げてくる。苦しそうだが、その表情は明らかに……奉仕することを、喜んでいた。
 頭部を引き寄せて、深く挿入する。前後に揺する。
「んっ、んっ、んうっ、んっ、んんっ……うぅ、ん、んんん」
 密着した舌が裏筋をねぶる。陶然としてなすがまま喉の奥まで受け容れる百之助の顔は蕩け切っている。
 熱の篭らぬ硬質な白皙は、性的な興奮に侵されると……例えようもなく淫蕩な色に、染まる。
「そろそろ、出すぞ……」
「んっ、ぁ、んん、ん、ちゅ……んうう……」
 聞こえているかも怪しい。夢中で目を閉じて受け入れる健気な顔を見ながら、達した。
「んんっ、!」
 弾けた先端が外れて、上気した顔に、まんべんなく精液がかかる。
「あ……っあ……」
 肌に対比して鮮烈なほど赤い舌の先に、唾液と混じって白く濁った糸が引いた。口内、瞼、鼻先、唇に垂れる排泄液。汚れる面影。口端に溜まったその一滴を、仕舞う舌が一緒に口に含んだ。
 こくりと、尖った喉仏が上下する。
 百之助の目が仄かに、微笑った。

 掌の下で、ごくりと唾液が嚥下されるのが皮膚と肉を通し伝わってくる。ゆっくりと圧をかける。
 やがてひくり、ひくりと喉が痙攣を始める。
 きゅう、と下の穴が締まった。絞り上げるようにうねっている。熱病のように赤く染まる顔。潤んで彷徨う目。そこに滲む興奮と、恐怖と、哀願。
 自然と開いた口から、赤い舌が押し出され、震え、蠢く。
 何かを訴えるように動いて、濡れた表面が淫靡に光を反射した。
 揺れる腰が前兆を伝える。
 束の間この世から離れようというその瞬間、その舌先が描こうとしている訴えが、“助けてくれ”なのか”殺してくれ”なのか幸次郎には分からなかった。

 解放され、げほっ、げほと咽る百之助の息が整わぬ内に、達したばかりでまだ大きく動いている内部を、容赦なく穿つ。
「くはっ、ああっ、っあ、っぐ、うええ」
 時折嗚咽を漏らし、肩を激しく上下させ、眦に涙を滲ませている。しかし抵抗の素振りは一切見せない。幸次郎の与える全ての仕打ちを甘受して、そしてあからさまに、感じている。酷ければ酷いほどに。
「あぐっ、うあ、あ、あっ♡♡ あっ♡♡」
 苦しみに顔を歪めながら、同時にそれは悦楽の表情でもあった。
 首を絞めるようになってから、百之助の態度は明らかに解放的になった。件の行為によって、内心に潜む何らかの抵抗が薄れるようだった。まるで禊のように。
 いつでも力をほんの少し強めれば、ほんの少し長引かせれば、死ぬ。その瞬間を味わえば味わうほど、百之助は素直に幸次郎へ依存した。何度も耳にあなたをお慕いしていると囁いた。あなたが居れば何も要らないと切なく啼いた。
 まるで、麻薬のようだった。幸次郎はそんな百之助に溺れ切っていた。

 ◇

 尾形百之助の噂を耳にする度にどんな気分になったか、言葉にすることは難しい。存在を気にかけぬ筈はなかった。百之助は知らぬだろうが、おそらく百之助がこちらの姿を目にするよりも多く、遠目で姿を見ていた。目が合ったことはない。どこに居ても、その肌がすぐに群衆の中から存在を見つけさせた。
 快晴の下にあっても、その肌は尚、冷たい石じみて其処にあった。周囲から浮いて、風景の一部だけが絵画の如く静止しているかのように――記憶に残る女の影と同じように。
 かの女の涼やかだった面差しによく似た、すっきりとした顔立ちの中で、目元だけが異質だった。己とよく似た、重い漆黒の双眸。
 眼窩に嵌り込んだその黒色は、沈んだ昏い白皙と合わさり……一種、異様な妖しさを醸し出すかんばせとして結実している。

 そう感じさせる素養なしに、大の男に対して、まるで女を嬲るような噂などが人々の口に上るものだろうか。

「あッ、んあッ、っはあっ……父上っ……」
「なんだ」
「俺の噂を……っご存知、だったん、ですよね」
 幸次郎の頰を包んで優しく撫でながら百之助が尋ねてきた。非難ではない。その笑みに滲むのはただ、はにかむような自嘲であった。
「疎ましかったでしょう……いなくなって欲しかったですよね。汚点……恥、だったんでしょう。っふ、あはは」
 無邪気とも言える笑い声を立てて、あとにはあどけなさだけが笑顔に残る。菓子をねだるように求めているのは叱責と狼藉、否定、仕置だ。
 淫蕩に耽って理性の戒めが解けていくほど、百之助は罰を欲した。誘惑するように己を卑下した。そして、あなただけに俺を罰する権利があり、あなただけに俺を許す権利があるのだと、甘い口調で囁いた。
 遠い日、生まれて間もない赤子を抱き上げた時の感情を最早覚えてはいないが、姿は覚えている。あの無垢な赤子は、時を経て、今や人を惑わす魔性と成り果てていた。
「どうだったか……」
「っく、あああ♡♡」
 上に跨り、緩慢にこちらの性感を煽る動きを繰り返していた腰を、痕が残りそうなほど強く掴んで引き下ろす。
 深く抉られて震える陰茎を強く掴んで堰き止めながら、内部のしこりを強く突き上げた。
「あぐっ、あっ、くるし……っ苦しい、です、父上ぇ……ッ♡」
 欲情し切った顔で苦痛を訴える百之助の手が、溶けるような手つきで幸次郎に縋り付く。制止ではなく、恭順の表れとして。
「覚えていない」
「っく、ははっ♡ そう、ですかっ? ごめいわくじゃ、なかったんですね? 俺のことなんて、そもそも、どうでもよくて……っだから、大丈夫、だったんですねっ?」
「違う。お前のことは考えていた。だが一口で言い表せるような心情ではなかった」
 悲しいのか、喜んでいるのか、分からない笑みに強張った百之助の唇を塞ぐ。施しを待つばかりの頼りないほど柔い舌を舐りながら考える。

 どうだったか。疎ましい……その存在に対し抱いていた感情はそんなものだったか。
 そうと言えばそうかもしれない。
 その存在が意識に上るたびに焦燥のような感情が湧いた。どうにかすべきだという気もしたし、どうにもならないという考えもあったし、どうすべきでもないという苛立ちもあった。
 ただ、初めて姿を目にした時――しばらく目が離せなかった。
 焼き付いた姿はそれ以来、思えば誰の面影よりも鮮明に、実態を持った肖像のように身の内にあった。
 捨てた息子。見たことのない男。
 それは己という人間が背負うこれまでの人生、生きてきた世界すべての、反証だった。
 この世でたった一人世界から零れたその姿を描くごとに、そのたった一人に意識は囚われ、揺らいだ。
 居なくなって欲しかったのか。……そうかもしれない。存在を忌々しいと感じた事も、恥だと感じた事も確かにあったように思う。
 だが浮かぶ姿、単純にそれのみに対して抱く感情は、いつも決まっていた。引き寄せて目を合わせたい。たったそれだけの考えが、原初的な衝動として胸に巣食った。
 そしてその身に纏わりつく世界の不浄ばかりが間に堆積して。

 腕の中の白い頸を包み込むと、捧げるように従順に反らされる。見上げてくる瞳は恋しげに、寂しげに、与える罰をじっと待っていた。
 今はこの世も、お互いを隔てていた境界も、何もかも既に壊れている。だが初めてその姿を目にしてから、かつて抱いていた思いを、あえてひとつの言葉にするならば。
「もしお前と二人きりで、目を合わせ、会話する機会が訪れたらどうなるかと……ただ、想像していた」
 再び口づけると、幸次郎は腕にゆっくりと力を込めた。

 恍惚の果てに、百之助は時折失神する。目覚めるのを待つ間が、今この世で最も心の鎮まる時間だった。力なく目を閉じた顔は、子供のように幼い。
 頸部の圧迫によって脳への血流が断たれることによる貧血。酸素の欠乏による窒息。脆い首の骨。
 いつか本当に殺してしまう。その前にこんなことは止めなければならない。
 この、狂った逢瀬そのものも。
 だが幸次郎はもはや己から百之助を放すことが無理だと分かっていた。もう百之助なしでは生きられない。中毒は全身に広がり手遅れになった。
 この世で最も己の行為の犠牲になった存在でありながら、すべてを、命すらも委ねて赦し、共に堕ちてくれる、己だけの生贄。
 今や離れている間の人生は、狂おしいほどにその身を欲するだけの空白と成り果てた。その眼に見つめられなければ息が出来ない。手放せない。ならば共に生きるか。更地の上に、新たな人生を……捨てた筈の、知らぬ世界を生きていくか。
 しかしこの哀れな息子へ、ただ共に生きるだけの己の存在を与える術を、既に幸次郎は持たなかった。どれほど思い描いても、何も奪い合わず存在できる親子の情は、どこまで行っても夢のように現実感が無いのだった。

 やがて微睡みから目覚めるように百之助が目を覚ます。
 ずっとそばで見つめていた幸次郎と、何よりも先に目が合う。
 そうすると百之助はいつも、ほっと安堵したような、それでいて少し残念そうな顔をして微笑むのだ。
 おそらく、夢から醒めた事に対して。

 幸次郎は掠れた声で告げた。
「お前の肌も、唇も、温度も、匂いも、お前の母親によく似ている」
 百之助はまだ夢を見ているような表情で聞いている。
「この世で最も私を責める権利のあるお前に、この世の何もかも許させて、私は罪の意識から逃れている。お前を利用している。そうすることに溺れている。何故、こんな醜い父を拒まん。お前は私から何を得ることがある。どうして何も言わんのだ」
 堪え切れず、その身を抱いて縋り付く。百之助を欲する事への罪悪感が齎す痛みと、百之助を失う事への恐怖による苦しみが心に血を流させる。
 無様に白い胸に顔を伏せて懺悔する父の頭を、百之助は撫でた。いつものように、柔らかい、慰めるような手つきで。
「俺もあなたに重ねている人が居るのです」
 応える声は静かだった。
「その人がずっと、絶え間なく、俺を呪っている。あなたの肌も、唇も、温度も、匂いも……その人によく似ています。あなたに犯されると安心する。あなたに罰してもらえれば、すべてが赦されるような気がして」

 幸次郎は顔を上げた。百之助は笑っていた。ひどく悲しそうな、しかし、とても満たされた笑みで。
「父上……今度はもっと強く締めてくださいね。そして、今度こそ、 」

 ◇

 暗い室内は初めて訪れた場所のように寒々しい。
 高価そうな調度品の数々に初めて気が付く。こうして見てみれば、せっかく招かれていた花沢の本宅だというのに、細かい様子などはまるで目に入っていなかったのだと自覚する。部屋の主ばかりが、目に入るものの全てだったから。

「自分たちを捨てた、恨みとでも言うつもりじゃあるまいな?」
 ――今更。

 落ち窪んだ目で尾形をじっと見つめながら問う父の声には、諦めたような静かな落ち着きがあった。
 恨み。
 結局、そんな感情を抱けたことは、一度だって無かった気がする。
 ただいつも、己の不始末を許してもらえず、捨て置かれたような心許なさがあるばかりの、侘しい胸裏。

 恨んではいなかった。高みにあるその存在を知りながら、遠く生きていた頃に抱いていたもの。やはりそれは……もし、二人きり、会話をする機会が訪れたら、どうなるだろうと。ただ思い描くだけの。
 しかしそれは、父の言ったものとは違う。今思えばそれは渇望だった。そんな日が来ることをいつの間にかずっと願っていた。
 壊れた関係の中で、何もかも捧げたいと父との淫行に耽った最中の感情も本当だった。どんな形でもよかった。父を愛していた。ならこれは、裏切りなのだろう。

 だが……己は確かに父を欲していた、しかしそれ以上に、それ以前に……母に父をあげたかったのだ。
 それだけだった。
 一番初めの、何よりも叶えたかった望み。無論、叶えられはしなかった。もう自分には、あげられなかったものを、奪わないようにすること……偶然持ち得てしまった幸福から手を放すことしか、出来ないけれど。

 最期の言葉を言う父の顔は少し微笑っているように見えた。

 ◇

 返り血が服に付かぬよう、背中側から抱き起こす。
 立派な背中だ。やはりあれは親譲りの体格だったのだなと思う。ねえ勇作殿、と遺影を見上げた。遺影もまた立派だ。

 腕を前に垂らして、自然な姿勢にする。
 既に身体は冷たくなってきていた。もうあの暖かさはこの世のどこにもない。
 場を整え終わると、尾形は亡骸となる父を背中から包むように抱きしめて、少しのあいだ目を閉じた。

 心がもし胸の辺りにあるのなら、今それは切り裂かれて千切れてずたずたになって焼け焦げている。
 尾形は己の心が、そのまま死んでしまってくれることをただ願った。
 恋しい父上と一緒に、このまま。

 終