刹那の麗らかさ、不変の静けさ

「ああ、美しいですね。雲の切れ間から陽が落ちて……空の青も透き通るようだ。良い天候に恵まれました」
 隣で立ち止まり感慨深げに呟く”勇作殿”に、尾形は気乗りしない眼差しをその視線の先に向けた。夕暮れにはまだ遠い日差しが、白く鈍い光を、遠くの山間へと投げかけている。
 確かに天気はいい、と。それ以外に目の前の光景に対して別段思うところは無かったため、尾形は黙っていた。勇作殿は親しげな笑顔を尾形に向け、何か言おうとしたが、不意に口を閉ざした。
 そのまま沈黙が流れる。会話が無くなったというのでなしに、あえて黙ったというような無言だった。
 風が草を揺らす乾いた音だけが聞こえる。鳥の声も響かず、静かなものだった。長閑な、ともすれば暢気な空気に包まれる。静止した空間に思うところはない。口が無言であるのと同じく、尾形の心もまた何も語らなかった。
 ただ呼吸して其処にいるだけの人形と化した尾形に、勇作殿はゆったりとした口調で話しかけてくる。
「最近気付いたのですが、私はこういった長閑な雰囲気が好きなようです。静かで、平穏で……いっそ無聊をかこつ程の、何の変哲もない光景が、たまに無性に恋しくなることがあります」
「……ここは兵営から大して離れておりません。いつでも見られる景色と思いますが」
 思った事を言うと、勇作殿は虚を突かれたような顔をした後、声を上げて笑った。
「そう、そうですね。その通りです。おかしな事を言いました」
「いえ……」
 何やらツボにはまったらしく、本当に可笑しそうに笑っている。
 尾形は不思議なものを見る目でそれをしばらく眺めていたが、どうやら受け取った意図が違ったらしいと思い至った。勇作殿が言っているのは傍目から見るそれではなく、只中で感じるそれを指していたらしい。
 しかし詮無いことだ。遠いものを恋しがった所で、近くには来ない。
「それでは、無聊な生活にお暮しになるとして……勇作殿は畑でもおやりになるので?」
 興味はなかったが尋ねた。
「ハハハ、そうですね。確かに、食って行かねばなりません。畑ですか、きっと大変だろうな」
「勇作殿の体格なら大丈夫でしょう」
 素っ気なく言って勇作殿を見ると、柔らかく細められた眼差しが尾形に向けられていた。
「そうでしょうか。すみません……士官として相応しくない発言でしたね」
 どことなく嬉しそうに言うので、「はあ」とだけ返す。士官らしくないのは、今こうして話している態度だけでも充分承知のことだ。
 勇作殿はにこにことして言った。
「もしかしたらこんな風に思うのは、兄様と共に見ているからかもしれません」
「はあ」
「私の好む、ああした長閑さの中を、もし兄様と過ごせたならば。きっと格別の感がありましょう」
「はあ」
「兄様はどう思われますか。穏やかで、なんの変化もない、ああした静かな空気の中を、例えば私と共に過ごすこと。やはり退屈にお思いになりますか」
 尾形はその問いについて、よく考えてみたが、そうしたところで答えが新たに出てくるような事でもない。
「特別、変わったものとも思われませんが」
「と申しますと?」
「兵営だろうと、戦地であろうと、天気が良ければ空は青いでしょう。黙れば何処も静かになります。同じように、ああした暢気そうな場所でも他人と暮らす以上、煩わしい事もあるのでは。遠くでは細部が見聞き出来んから静寂と見えるだけかもしれない。場所が変わったところで棲む者が同じなら、流れる時もまた、同じく過ぎるだけではないかと」

 閉鎖的な村で暮らしていた頃と、軍に飼われる今。大した違いは無い。何処にでも他者は群れ、そして何処でも尾形は母の息子であり、父の息子だった。声も手も、尽きず纏わりつくばかりの“退屈な”人生。
 あるいは誰にも知られぬ、過去の無い土地で生きれば何か様態も変わるのかもしれない。静かで穏やかな……しかし言う通り例えばそこに、彼の姿があるとしたら。
 結局同じ事だ。どこへ行っても。

 尾形はその姿を見つめて言った。
「きっと今の暮らしと同じです。変わらない場所に、わざわざ行きたいとは思いません」
 勇作殿は、暫し呆気にとられたような顔をした後、真面目な表情になって口を開く。
「山間で変わらぬ日々を安穏に暮らす生活と、来たる出兵に備え訓練に明け暮れる今の生活、兄様の中では同じものなのですか?」
 風が強く吹いた。遠くの地を照らす日差しが、流れた雲で翳るのを、尾形は何とはなしに見つめる。
「先の保証なんてどこにもありませんよ。あると思うことは出来るでしょうがね」
 ずっと続くということが、天国になることもあれば地獄になることもあるのだ。

 勇作殿は、少しの間黙っていたが、やがてぽつりと呟くように言った。
「確かにあなたには、いつも……どんな時でも、静けさがあります。あの冷たい日差しのような……」
 顔を向けると、珍しく感情の読めない眼が、尾形をじっと見つめていた。
「だから私は……」
 頭上の雲が切れる。突然強く差した日差しに、勇作殿は口を閉ざした。尾形は眩しさに瞬きする。
 目が眩んで前後不覚になるように、一瞬尾形の意識から己を取り巻く過去と未来が消える。その視界に映った一人の背の高い男は、欲しいものに手が届かず途方に暮れる、子供のような顔をしていた。

「……早く行かないと時間が無くなってしまいますね」
 突然話題を打ち切った勇作殿は、決まり悪げに頬を掻いた。心なしかその頬が赤らんでいるのが不思議で、尾形は首を傾げる。
「行きましょうか兄様。何だか腹が空いてしまいました。兄様に是非食べて頂きたい品があるのです。それは、この時期、この地域でなければ、食べられないものでありまして」
 不自然なほど明るい声で言った後、言葉が続かなかったのか、勇作殿は取り繕うように笑う。困ったような笑顔だった。しかし、妙に幸せそうな。
 暢気な顔だな、と思った。まるでさっき感じた空気のように。

 ぎこちない会話になってしまったと焦る勇作殿へ、尾形は無言で微笑みを返し、この場を取り繕うことに協力する。
 笑顔を作るのはあまり得意ではないが、今のこれは割合、上手く笑えているような気がすると思った。