二人の世界

「せっかく来てもらったんで……」連れてきた患者を診察台に案内しながら、捨てられた子犬のような目を向けてくる。「精密検査を……」
 返事をせず、黙って腕組みしたままでいると、怒っているとでも思ったのか「なにとぞ……」と付け足してきた。へりくだればいいというものではない。
「根拠を言え」
 患者の様子はこちらもざっと見た。患者自身はどういう主張をしているかも既に聞いている。その上で説明を要求する。一体、お前はどう思って、自覚症状のない患者を説得しここに連れてきたのか。

 促された龍太郎が口を開きかける。その口が「な……」と言おうとしたので、すっと手を翳して止めた。
「〝なんとなく〟はやめろ」
 言おうとした呪文を封じられ、お預けされた犬のように龍太郎が口を閉ざす。どうしたらいいか、迷うような瞳が揺れている。
 その頭の中では今、膨大に詰め込まれている知識の本棚から飛び出した類例と、観察して得た微細な情報の集積とが、洪水のように一気に押し寄せて違和感という器を溢れさせているのだろう。自信という大きな甕を持たない小さな手には余るそれを抱え、途方に暮れて誰かが来るのを待っている。
 だが少なくとも、持ち得た以上は運べるのだ。
「順番に言え。少しずつ」
 龍太郎は躊躇いを見せた。
「でも……本当に大した疑問というほどの疑問じゃなくて……カン違いの可能性の方が高いかもしれなくて」
「そうか。カン違いだったらどうする?」
「えーと……あやまって、叱られます」
 当然のように素直な口調で言う。
 ここが困り物だと、内心で苦笑した。責められて自分の非を認めて謝るという仮定を全く苦にしていない。だから曖昧模糊とした細かな違和感を掘っていくよりも、結果だけを提示してくれる精密な検査で手っ取り早く結論を出して貰おうとするのだろう。その結果が自分の失敗や恥でもかまわないのだ。そのおかげで、躊躇いを振り切り患者をここに連れて来れるのだという事も言えるが。
 
 だが今は、そうしたプライドを犠牲にする勇気よりも、自分の見る目に対する自信を養ってもらわなければ困る。
 お前の違和感は正しいのだから。
 
「俺には、お前が思ったことが手に取るように分かる。お前が何を見て、何を思い出したのか」
 龍太郎の目を覗き込んで言う。
 丸くなった目が真っ直ぐにこちらを見ている。こちらと同じものを見、同じことを思う目が。
「以前、お前の〝なんとなく〟を当ててやったろう」
 ためらいがちに、微かに龍太郎が頷くのを見て笑う。
「だから安心して言え。お前が何を言うか、俺はもうわかっている。これは、その確認作業に過ぎないのだから」

 龍太郎は戸惑いに少し目を泳がせた後、警戒を見せながらもゆっくりと物陰から顔を覗かせる獣のように、上目遣いでこちらを見た。
 それは心筋炎の患者を連れてきた時、心音がどこか変だと告げてきたあの目に似ていた。
「……確かに患部が腫れて熱を持っているし、主訴もおおむね一致してますが、痛み方とタイミングが、典型例とは異なっているのが気になって……」
「うむ」
「ここ最近の行動を振り返ってもらった時、影響があるかもしれない、特徴的な習慣があることが――」
「そうだな」
「それに、問診中に席を立った時、こういう動作をしていて――」
「……フフ」
 ――よく見ている。
 零れるように次々にその口から紡がれる細かな根拠は、どれも全て的を射ているものだ。中央を貫く一矢でなくとも、明確にその的に向けて射っている。

 よく学んでいる医者は珍しくない。だが、こうまで自然によく見ている医者は珍しい。
 一歩引いた所で黙ってじっと相手を見ること。自分と関わりのない相手の一挙手一投足に、当たり前のように真剣に注目すること。そこに自分の意識と知識を全て傾ける労を厭わないこと。
 
 一つの献身だ。なんの衒いも無く失敗して叱られるリスクをとったように。
 医者としてそこに存在する自分を、相手のために差し出せる人間だ。

「……当たってました?」
 一通り所見を述べ終えた龍太郎が、やはり物陰から伺うような目でこちらを見つめて言う。
「オレの思ったこと。先生が読んだ通りでした?」

 まるで人を千里眼を持つ霊能者か、奇術師のように捉えているかのごとき物言いだった。
 しかしある意味ではそんなようなものかもしれない。
 現に、俺にはお前の思うことがわかる。
 お前が俺と同じものを見、考えている時、俺はそれを知っている。

 俺は言い聞かせるようにその耳に吹き込んだ。
「……ああ。まったく読み通りだった。これからは〝なんとなく〟で誤魔化すのはやめろ。どうせ俺にはお見通しだ」

 龍太郎は困ったように、でもどこかホッとしたような目で、仄かに笑った。
 それは腹を見せる獣のように、こちらを完全に信じ切ることにした顔だった。

 違和感を手に抱えて立ち尽くす、未熟な才能。俺がここに居るが故に、龍太郎はそこから走ってくるようになるだろう。
 誰も居なくても動き出せるようになるには未だ至らなくても。俺の姿を見つければ走ってきて、それを差し出してくる。
 俺に分かられていると分かったから。
 龍太郎が今、それを分かったことが、俺にはわかる。

「わかりました。これからは頑張って言うっス。どうせ、先生にはバレるんだったら」
 穏やかに降参するような眼差しが、こちらを見つめて言う。
 あまりにも無防備が故に、その眼差しは真っ直ぐにこちらの内心まで注いでくる。
 そうして見つめ合う感覚には、どこか快美な実感が伴っていた。