幸福な檻

 悟飯の住んでいる村の100km圏内には図書館がない。
 本屋ですら、とても古めかしい小さな古本屋が遠くに一件あるのみで、置いてある本も偏っているしボロボロだし、悟飯が目当てにしているような学術系の本は数える程度しかなかった。
 しばらくぶりにブルマの家に遊びに行った時にそのことを相談すると、ブルマは欲しい本があったら言えば取り寄せることを約束してくれたばかりか、家の中にある書庫へと案内してくれた。ブリーフ博士の蔵書を集めたらしいその部屋、というより広間には、図書館もロクに行ったことのない悟飯には考えられないほど大量の本がぎっしりと巨大な棚を埋め尽くしていて、悟飯は一人でセルと戦えと言われた時以上に気が遠くなった。
「こんだけあっても読まなきゃ宝の持ち腐れだもの、好きに借りて読んでいいわよ」
 ブルマが実に気軽に言う。少し棚を見ただけでも読みたくて仕方のなかった有名な本がいくつか目に止まっていた悟飯は、本当にいいんですかと四度ぐらい聞き直した。
「もちろん! 父さんだって喜ぶわ。どこかに寄贈しようかって言ってたくらいだもの。置き場所ないって断られてたけど」
「そうなんですか?」
 もったいないなあ、とソワソワしながら背表紙の海の中を歩き回る。部屋の中央に設えられたソファにトランクスと寛ぎながら、ブルマもぐるりと周囲を見渡した。
「まあこんなおカタい本、悟飯くんみたいな学者の卵ぐらいしか読みたがらないでしょ。あ、でもベジータが最近たまにここで本読んでるみたい」
「えっ。ベジータさんが?」
 思わぬ情報に声がひっくり返る。手に持っていたおもちゃで遊んでいたトランクスがベジータの名に反応して、「パパ」と笑顔を見せた。ブルマは愉快そうに笑った。
「意外よねー。まあ基本トレーニングばっかしてるけど、休憩中とかよっぽどヒマなんじゃない? いつ見つけたのか知らないけど、気付いたら勝手に入って勝手に読んでたのよ」
「地球の文字が読めるんですか?」
「フリーザ軍のシステムで、判明してる惑星の言語データをインプット出来る機械があったんだって。基本的な部分だけらしいんだけど。便利よね~」
「へええ~……。どんな本を読むんでしょう」
「なんか自然科学の本みたい。恋愛小説でも読んでたら笑えるのにね」
 悟飯は笑った。ブルマも目を細めて笑う。幸せそうな笑顔だった。

 *

 あのブルマとあのベジータが……クリリンやヤムチャと会えば、その度に必ず上る話題だった。悟飯も未だに不思議な気がしている。
 それでもブルマは全く後悔した様子がないばかりか、ずいぶん幸せそうだ。それは二人も認めていた。
 ヤムチャは「ベジータのやつ顔は確かに男前だからなあ」と、遠回しに自分の容姿も男前だと言いつつブルマがベジータを選んだ理由を分析していた。
 クリリンはそれを白い目で見ながら、「でもベジータとくっついてからブルマさん、なんか落ち着きましたよね。もちろん子供が出来たってのが大きいんでしょうけど」と、自らも娘をあやしつつしみじみと言った。

 確かに悟飯から見ても、ブルマは前よりずっと大人びて見えるようになった。ヤムチャと付き合っていた頃は、ブルマはしょっちゅう癇癪を起こしていたイメージだった。ベジータがその場所に座ってからは、何か必要なものを得たような……何かが腑に落ちたような、そんな雰囲気がする。
 二人は「相性が良かったんだな」と、毎回同じような結論に落ち着いた。悟飯はいつも口を出さず、ただ、ベジータはどうなのだろう、ということを考えるのだった。

 悟飯にとってベジータは、それまでと全く別の世界を持って現れた宇宙人だった。後から聞けば父の兄であったという最初のサイヤ人が現れて、わけがわからない内にピッコロに攫われ、荒野でスパルタに鍛えられて。でもそこまでは、まだそれまでの世界の延長の気がしていた。
 何時を思い出しても同じような日々が続く、平穏で、安らかで、完璧だった幼いころの世界。母はいつも暖かな家で帰りを待っていて、父がいればどんな事も絶対に大丈夫だった。
 けれど遠い星から来たあの人は、圧倒的な力と、闘争と、残酷さと、父の過去を連れてきた。
 未だに彼は父をカカロットとしか呼ばない。それを聞くと、悟飯の胸に一抹の寂しさがよぎる。それは知らない人で、知らない名前だ。彼がその人を遠くから連れてきて、父を遠くへ連れて行ってしまったような気がする。

 悟飯はベジータを嫌いではなかった。もしかしたら好きですらあるかもしれない。いつも離れた所で一人でいる姿を、不意に目で追ってしまう事がある。彼はサイヤ人の王子だという話だから、あるいは自分にも半分流れている同族の血のせいなのだろうか?
 出会ってからしばらくは悪者以外の何物でもなかったし、悟飯自身酷いことをされた記憶も結構あった。しかしベジータという人はどれほど悪い事をしていても、どこか理性的だった。彼の行動には常に理由がある。それでいて目も眩むほどのプライドが、彼自身のためだけに彼を激昂させるのだ。
 ギニュー特選隊と戦っていた時、そうする以外の発想すら持たず、危険の迫っていたベジータの身体を避難させた。クリリンが攻撃している間に無事助け出した悟飯に対し、ベジータは、何故自分を助ける暇があったら敵を攻撃しなかったのかと罵った。
 その言葉があまりに思いがけないものだったので、悟飯の中で強烈に印象に残っている。悟飯はずっと、命というものは誰にとってもどんなものでも大切で、生きている以上それよりも大切なものなど無いのだと思っていた。今もそれが自然なことだと信じている。
 けれど彼の命は彼だけのもので、他人にその一片をも預けるつもりは無いのだろう。彼自身だけが彼を生かし、そして彼の戦いは生存のためのものではない。
 そのあまりにも完結した彼の孤高さに、悟飯は僅かな憧れのような、あるいは畏怖のようなものを感じていた。
 今でも不意に父を喪った後悔と、悟飯自身を裏切って全てを制圧しようとする自分のパワーへの恐ろしさがちらつく。結局あれほど望まれ、尽くしたが、悟飯は戦いを好きにはなれなかった。
 その点ベジータは、戦いこそが生きるということであるような人だ。セルを倒して、父の居ない日々が始まってから、悟飯は戦いから離れてしまっている。急ぐようにして。そんな自分を彼はどう思うだろう。何よりも、同じ日々を過ごす彼自身をどう感じているのだろう? そのことを考えると落ち着かないような不安な気持ちになる。
 彼にとって父は最後の同族で、最後の敵だった。それはきっと、彼の世界に残っていたのは父だけだったということなのだ。

 だから想像はつかないけれど、彼が本当に、あの幸せそうに笑うブルマとトランクスの間で、平和に生きて呼吸をする毎日を今は過ごしているのならば。
 それはとても素晴らしいことだろう。彼の世界が悟飯の世界と同じになっていく。彼の孤高さが失われていくことを思うと、胸を締め付けるような感傷を悟飯は一瞬感じるけれど。
 それでも彼がひとりではなくなれば、彼の世界が父ひとりのものだけではなくなる。
 彼の孤独を思う時に悟飯が感じている、届かない星を見上げるような気持ちも、救われるだろう。

 *

 前回ブルマの家に行ってから一月ほどして、また街に出る用事が出来た。通信教育の更新手続きのために、必要な書類を公的機関に取りに行く必要があった。
 ブルマの街まで行かなくても受け取れる書類だし、前回借りた本はまだ読み終わっていないので、今回は顔を出すのはやめておいた。
 畑仕事を手伝ってから来たため、無事書類を受け取って帰路についている今は、もう殆ど日は落ちている。しかし少し離れた遠くには煌々と明りの漏れる背の高い建物があり、飛ぶ姿を万が一見られる可能性もゼロとは言えなかった。
 急いでいるわけでもなし、辺りに何も無くなってから筋斗雲を呼ぼうと決めて、悟飯はのんびり街から遠ざかって歩いている。

 妙な気配を感じたのは、最後の建物から数キロ離れた砂利道を歩いている時だった。近くに流れる小川のせせらぎに掻き消されて、音は聞こえない。
 強い気ではなかった。ただひどく興奮しているのか、ぶれが酷い。動物ではない。人間のようだった。
 辺りを探れば、前方80mほどの土手の中腹、寝そべれば人も隠れるほど背の高い草が生い茂った内の、その一か所が、風以外の要因で動くのを目にした。
 悟飯の胸を衝いたのは、不安な予感だった。何をまだ目にしたわけでもない。ただ本能が、何か不穏な気配を感じ取っていた。無意識に気配を殺し歩を進める中で、突然、先ほど通り過ぎた、気にも留めない景色の一端が悟飯の脳裏を過る。
 街の中心から遠のき、ぽつぽつと点在するばかりになった民家。悟飯の家にも少し似た建物の中の、その一つの軒先にエプロンをつけた婦人がひとり立っていた。家事仕事が終わったのか、手を前掛けで拭きながら、暗くなっていく空を眺め、キョロキョロと不安そうに辺りを見回して。何かを探すように。その姿は幼い頃の悟飯を待っていた、母の姿を思い起こさせた。

 *

 近づいてみると、荒い息をした屈強な男が、少女を犯していた。少女は悟飯よりもいくつか年下に見えた。服を切り裂かれ、腕は折れているのか不自然にだらりと地に落ちている。あちこち血と青痣だらけで、血の滲んだ口元は力なく開き、意識が無いようだった。少し離れた所に、籠に入った果物が落ちていた。

 *

 張り詰めて研ぎ澄まされた自我のない意識が、どれくらい身体を支配していたのか分からない。
 知っている気配に、顔を上げた。
 黄金色の視界の中に降りてくる、久しぶりに見る姿に唐突に我に返る。
「よう」
 ベジータはどこか上機嫌な様子で、地に降り立った。
 それを呆然と見つめてから、悟飯はゆっくりと辺りを見回す。抉れた地面に血が飛び散っていた。
 足の下で、砕けた腕が捻じれて潰れている。
 俯せになった男は虫の息だが、辛うじて生きているようだった。
 形を変えた頭の横で、飛び散った歯が、鈍く光を弾いていた。
 悟飯は自分の右手が、その背に向けて翳されているのを信じられないような気持ちで見下ろして、動転し、顔を覆う。
 止めを。
 止めを刺そうとしていた。

「悟飯!」
 ベジータと殆ど時を同じくして、ピッコロがやってきた。
 その声に悟飯は胸が締め付けられるような気持ちになる。気を鎮められない。超化が解けない。ずっと遠くまであった動物達の微かな気配も、気付けば異様な気に恐れをなしたように全てが消え失せていた。自分はどれだけの気を、こんなところで、こんな一方的に、ここで放出していたのだろう? 遠く離れた地に居たはずの二人が気付いてしまうほどに。

 ピッコロは悟飯を険しい表情で少し見つめた後、倒れた少女の方へ近づいた。傍に膝をつき、手をかざす。
「……この子供はまだ息がある」
 悟飯はハッとした。
「本当ですか!」
「デンデに治癒させる。記憶も消そう」
 途方もない安堵で、どっと冷や汗が滲んだ。
「お、お願いします……」
 情けないほど震えた声になる。真っ先に少女の無事を確かめなかった自分に悟飯は絶望した。あの子を助けるために自分はこの力を奮ったのではなかった。報復のために男を蹂躙したのだ。

 ピッコロはちらりと悟飯の足元を見た。
「……こいつはどうする」
 途端、鎮まりかけていた気が膨れ上がった。熱風のようなそれに、ピッコロは気圧される。
 怒りによって覚醒するサイヤ人の性質を、悟飯はいつもまざまざと目の当たりにさせた。
 葛藤に握りしめた悟飯の拳がぶるぶると震える。
「……助けて……ください。このままじゃ死んでしまう」

「殺したらどうだ?」
 なんでもない風で、ベジータが不意に言った。
 顔を上げて、悟飯は信じられないものを見るようにベジータを見た。動揺し目を伏せる。
「そんな……」
「憎いんだろう、このゴミクズが」
 悟飯のすぐ傍まで近づいてきたベジータは、男の頭を爪先で無造作に蹴り飛ばした。その仕草は本当に、塵を扱うような無感動さだった。
「虫ケラだ。殺したいなら殺せばいい」

 また悟飯の気が膨れ上がった。やり場のない怒りであり、葛藤であり、絶望が、無い出口を求めて破裂しそうになっているような切迫さだった。
 近くに立っているだけでビリビリ肌を刺すほどのパワーに、ピッコロは堪らず怒鳴る。
「……ベジータ! お前は何をしに来た!」
 問われたベジータは、まるで悟飯の殺気が心地いいとばかりに目を細めながら答えた。
「久しぶりにコイツの強い気を感じたんでな」
 間近の怜悧な瞳が悟飯を見定めるようにして、その体が再び宙に浮かぶ。
「殺さないのか? なら来いよ悟飯」
 悟飯は苦渋の表情を浮かべながらただその姿を見上げていた。彼が何を言っても今は逆らう気がしない。ただ、不完全な月を背負ったその姿が眩しい。
 ベジータは今まで聞いた中で、一番親しげな声で言った。
「発散させてやる」

 *

「ピッコロさん! 悟飯さんは……」
「大丈夫だ。……今、ベジータが相手をしている。それより、この娘の傷を治してやってくれ。今晩の記憶も消した方がいい……」
「ああ、これは……なんてことだ」
 デンデは痛ましそうに顔を歪め、少女に治療を施し始めた。もう片方の手に持っていた男を指してミスター・ポポが訊いた。
「こいつは?」
「命に関わる怪我だけ治せばいいだろう。後で適当に放り出す」
 ミスター・ポポは納得したように頷いて、受け取った半死半生の男を床に寝かせる。そして確認するように言った。
「今の悟飯 キケン。だがベジータも危険」
「……どちらかがセーブするだろう。ベジータのやつ、いい修行相手を見つけたというような調子だった。嬉しそうな顔しやがる……あんな状態の悟飯に」
 ピッコロは苦々しい表情で、下界を見下ろす位置に立った。
 雲の向こうで、今も激しいエネルギーのぶつかり合いが行われている。

 戦闘民族、というサイヤ人の特性を聞いた時、その生き残りであるという二人にこれほど似付かわしい呼称もあるまいと思ったものだった。
 しかしその血を引く悟飯は、成長を見守ってきたピッコロからしても真逆の精神性をもっている。
 それゆえに、却って精神以前の、肉体の本能から起こる闘争本能の存在を感じさせる子供だった。
 いつかベジータは今際の際に、超サイヤ人になるためには非情になれ、甘さを捨てろと言っていた。悟飯はその優しい心がゆえに、もしかしたら誰よりも残酷になれる男なのかもしれない。
 そしてそれは悟飯にとって、ひどく残酷なことだろう。

 *

 衝動のままに、襲いかかるという表現が相応しい勢いで向かってくる悟飯の攻撃を、ベジータはギリギリでいなし、微塵の躊躇もなく反撃する。それは久しぶりの高揚だったが、しかしあと一歩何か精彩に欠けていた。
 エネルギー弾を命中させながら、ベジータは怒鳴る。
「どうした! そんなものか!? セルと闘った時はそんなもんじゃなかった筈だ!」
 防御して傷付いた手をだらりと下ろし、葛藤するような目が苦し気にベジータを見下ろす。その感傷的な目が気に食わず、ベジータは嘲笑した。
「なんだ、腑抜けめ! その辺の子供がゲス野郎に犯されたぐらいじゃ、その程度のむかっ腹しか立たねえってことか」
 歯を食いしばった隙間から、悟飯は呻いた。
「……やめてください」
「なんで殺さなかった? ああいう野郎が改心するとでも思うのか。いつかまたその辺の弱いガキを引っ掴まえて、同じことをしようとするだろうぜ。そのうちテメエも全然どうでもよくなって、女が泣き叫んだところで怒りもしなくなるかもしれんな」
「やめろ……」
「それともガキが殺されちまった方が気持ちよく怒れるのか? 心置きなくぶっ殺せるのか? ええ?」
 カッと悟飯の手に気が集中した。
「黙れーーーーッ!!!!!」

 怒りそのもののようなエネルギーの塊に、ベジータは武者震いのように片頬を上げ、ギャリック砲の構えをとった。

 *

 住居も何もない海の傍だったが、終わってみれば崖が二か所ほど崩れ去ってしまっていた。
 お互いボロボロになって体力を使い果たし、あちこち傷だらけのまま、無事だった岬の上の草原に寝転がる。

 悟飯はベジータの横顔をチラリと見た。戦いも終わった今は、何事にも興味を失ったような無関心さでベジータは夜空を見上げている。
「ベジータさんは、戦いたかったんですか? 僕と……」
 そっと問いかけると、ベジータは悟飯の方を見返したが、答える気は無いらしい。
 悟飯は視線を空に戻して、自嘲的に微笑んだ。
「……僕は、もうこれから超サイヤ人になる機会すら無いのかもしれないなんて、思っていたんですよ」
 あれほど超サイヤ人に拘っていたベジータに言う事ではないのかもしれないが、他に言う相手など居なかった。
「そのことを僕は、良いことだと思っていた……」
「知ってる。お前がそういうヤツだってことはな」
 意外な言葉だった。ベジータの顔をまじまじと見る。それをじっと見つめ返してベジータが言った。
「だが、本当にそうか?」
 悟飯は否定しようとして、口を開きかけ、やめた。
 ベジータも無理に答えを聞くつもりは無いらしく、プイと顔を逸らした。
「お前がどれだけきれいごとを言おうが、弱い奴は犯され、殺される。そうしてのさばった奴もまた、より強い者の犠牲になる。その頂点の奴を、いずれオレかお前は殺す事になるだろう」
 お前の父親がそうしていたように。
「……それは必ず起きる事ですか?」
 悟飯は身を起こして寝そべったままのベジータに向き直った。
「いつか終わりが来るんじゃないですか? いや、もう終わったのではないですか? おとうさんは、自分の存在が悪者を引き寄せていると言って、生き返るのをやめてしまいました……実際あれから数年経ちますが、強大な敵の影も見えません。なのに僕は、僕は今日僕より弱い相手を、怒りに任せて甚振って、あと少しで殺すところでした。それは間違っていた事です……悪い事です。僕にそこまでする権利はない。社会の、法律の手に委ねれば良かったんだ。少なくともそれは平等なことだ。普通の人ならそうするのだから……」
「ハッ。普通だと? 伝説の超サイヤ人が聞いて呆れるな。強者の決めたルールに従う無害な弱者は、無害であることだけが生き延びる術なだけだ。より強い者が現れればそちらに靡き、正義と称するだろう」
「あんな、復讐ですらないものが、正義であるはずがない……僕は恐ろしいのです。僕の力はこの星すらも消してしまえる……僕はより多くの生き物を守ることだけに、善行のためだけに力を使わなければならないのに……」
「カカロットのようにか?」
 悟飯は少し間をおいて頷いた。
「……悟飯、オレは甘っちょろい普段のお前は嫌いだが、ブチ切れて闘争本能丸出しになった時のお前は気に入ってる」
「え……」
 身を起こすと、ベジータは笑った。シニカルで、どこか蠱惑的な笑みだった。
「カカロットには無い殺意がある。反動のような非情さがある。もうカカロットはいない。セルも死んだ。オレがもし全力で戦って誰かに殺されるとしたら、お前にかもしれない」
 悟飯は戸惑ってその瞳を見つめ返す。未来から来たトランクスに聞いた話によると、あっちの世界ではベジータは人造人間に挑んで死に、悟飯もまたトランクスを師として育てた後殺されたらしい。
 そしてこの世界……結局父が死んでしまった世界、しかし多くの幸福が守られたこの世界で、ベジータにはそれでも戦いの中での死が待つと言うのだろうか?
 否定しようとして悟飯は愕然とした。彼が戦い以外で死ぬ姿を、全く思い描けないことに。
 この脳裏には、彼を愛する人たちの幸福な笑顔がまだ焼き付いているのに。
「オレは大勢の人間を殺して、この星すらも消そうとする……それを止めきれずお前が死ぬか、オレをお前が倒すか……なあ悟飯、どうなるだろうな。だがもしお前が勝ったとして……」
 夢見るような甘やかな口調。初めて見るような、穏やかと言ってもいい微笑を湛えて、唇が囁く。
「どうせならその時は、とびきり惨たらしく殺してみろよ」
 まるでそれは睦言だった。
 彼が焦がれているもの。それは悟飯が彼の中に見出していた、孤独と闘争そのものだ。
 失われていくそれを悟飯は祝福しようとした。だが、彼はそれを繋ぎ止めようとしている。悪徳で守ってきた孤高さとの、心中を願っているのだ。

 胸が苦しいような気がして、悟飯は眉を顰めた。
「……貴方がフリーザに殺されてしまった時……おとうさんは、貴方を埋葬しながら、“大嫌いだったけどサイヤ人の誇りは持っていた”と言っていました。“その誇りを分けてもらう”とも……」
 ベジータは片眉を上げた。訝し気でもあり、意外そうでもあった。
「貴方はひどいことをするけれど、相手を穢さない。嘘や、欺瞞や、言い訳が……貴方の悪には穢れがない……だから僕は」
 手を伸ばしその頬に触れる。少し冷えた指先が、初めて触れる彼の頬の体温を知る。生きている肉体の温度を。
「貴方を……」

 その先の言葉は、どうあっても明確な形にできなかった。代わりの行為を身体が要求したように、彼の唇に触れる。
 キスなんてしたこともなかったが、その行為の意味が本能で分かった気がした。

 数秒は触れていただろうか。顔を離すと、ベジータは目を丸くして唖然としていた。
 わけがわからないといった顔を眺めながら、悟飯は身を引く。
「……ありがとうございました。今日はどうも……。……おやすみなさい」
 それだけ言って地を蹴って飛び去る。
 幼い子供のような行為によって体中に広がった、奇妙な多幸感と切なさのせいで、他に何か言うことなど出来そうになかった。

*

 ピッコロは少女を確かに送り届けることを約束してくれたので、悟飯はその日はまっすぐ家に帰った。
 クタクタだったが、筋斗雲は呼ばなかった。一晩寝て、次の日の朝にはまたお世話になることができるだろう。けれどその晩は、何故か筋斗雲に乗れないような気がした。
 チチは遅くなった上に、服もボロボロで書類もくちゃくちゃにして帰ってきた悟飯を心配して怒っていたが、また取りに行くからと平謝りして誤魔化し、許してもらった。
 温かい食事を貪るように食べ、風呂に入りベッドに寝る。
 今頃あの少女も自分の家に帰り、温かいベッドで眠っているだろうかと悟飯は考えた。そして、ベジータも。

 もしかしたら彼は悟飯のことを頭がおかしいと思ったかもしれない。そう考えると少し困るような、しかし愉快な気もした。
 戦いの末に殺される夢想を語り、至極愉しげに笑ってみせた顔を思う。それが果たして現実になるとして、自分は彼を殺せるのだろうか。彼の言うように、惨たらしく、全てを奪い尽くすように?
 だが悟飯には分かっていた。例えどんな犠牲があったとしても、自分が彼に憎しみを抱く事は最早無理だろう。どれほどの破壊も、非道も、彼の手によって成されるそれは悟飯を圧倒し、やがては許してしまう。
 それが彼へ抱いている自分の中の何がしかの感情によるものなのか、それとも彼の生来持つ所謂カリスマによるものなのか、あるいは自分に流れる異郷の種族の血が、その王族たる彼へ肉体の根深い所から傅かせるのか。
 わからないけれど、しかし、その事実……悟飯には、いや悟飯でも、ベジータを殺すことなど出来やしないのだということを、彼に悟らせてはいけないと思った。
 何者も何も残せない彼の世界に、それでも今この世で悟飯だけが、儚い破壊の芽として根付いている。
 在り得ない可能性でも、それが彼にとってのある種の慰めなのかもしれなかった。なら、いつまでもその芽をこの身の内に見出していてほしい。
 それなら報われるだろう、と悟飯は思った。
 僕が彼に抱いているこの、遠く眩しい星を独り見つめるような、救われない気持ちが。

 *

 後日、ダメにしてしまった書類をもう一度取りに行った帰り、あの少女を見かけた。母親と一緒に、何か楽しそうに話しながら歩いている。
 通り過ぎる時、二人は会釈した。悟飯も返して、すれ違う。
 完璧な風景、完全な空気。
 ある日突然儚く崩れ去ってしまうものだとしても、それでも確かにこの世界はこういったもので出来上がっている。そしてしばらくは、多くのこうした風景が何事もなく続いていくのだろう。
 悟飯にも母が待つ。この書類を無事持って帰れば、今度こそ母はホッとした顔をしてくれることだろう。幼い弟も一緒に夕食を囲み、同じ明日を信じて眠りにつく。

 ふと、ブルマの家から本を借りることを知ったチチが、今度何かブルマさんちに持ってかねえとだなあ、と考え込んでいたのを悟飯は思い出した。
 おそらくお礼の品は食べ物になるだろう。持っていくついでに一緒に食卓を囲む流れになるのかもしれない。
 その時ベジータが家にいれば、ブルマはベジータを呼ぶのだろうか。
 悟飯はベジータと一緒に家族ぐるみで食事するところを想像した。かなりおかしかったが、あり得なくもないような気がした。