額縁の永遠

 写実的で、正確。一瞬をそのまま映しとったようだと、主として動物画がしばしば評価されるようになった。一枚の価値はそれほどではなくとも、筆が速く多作だったため、少しずつ画家として金銭が入るようになった。
 人物画も頼まれれば描いたが、自分からモチーフとして選ぶことは殆どなかった。唯一人間で描くのは、ひたすらにあの男の姿だけだった。誰にも見せない男の絵が何枚も何枚も溜まっていった。
 しかし何枚描いても、何年描いても、あの日の彼の死に様を納得いく絵にすることが出来なかった。
 光景は描けている。眼裏に焼き付いている。しかしそこには、確かにこの絵は彼だと、彼の死だと実感できるだけの何かが欠けていた。
 最も描きたい題材が描けずにいる間に、目を開いた彼の絵は無数に溜まっていった。かつて双眼鏡越しに貫かれた一瞬の眼差しは生きながらにして絵のように静かで、ともすれば死に顔よりも、時を止めたカンバスの上がよく似合った。

 スケッチをしに山に入っていた、ある冬の日のことだった。
 リスや鳥などの小動物が多くいた付近から更に深く分け入ると、動物の気配がまるで無くなってしまった。
 白銀の世界は死んだような静寂に満ち、己の吐く息以外なにも動かない。
 染み入るような寒さの中で、またあの夜のことを思い出す。
 闇の中、一晩中お互いの存在だけを感じていた。相手がこの死んだ世界のどこかにいて、自分を狙っているのだということだけが真実だった。
 見えない相手を探し世界と同化する。自信があった。己こそが世界であるように、そこに存在する相手を支配できる自信が。
 だが相手は、死とすら同化してみせた。生きながらにして死に身を晒すことを欠片も恐れていなかった。ただ必要な一瞬間に引鉄を引くためだけに身を殺し、息を殺し、心を殺し。狙撃手の域を越えて、もはや人ならざる完成された存在。
 圧倒された。過去も未来もなく、そう動くためだけに在れる生命のようだった。
 美しいと思った。

 回顧に沈んだその時、私は、ふと目を上げた先に一匹の大きな山猫がいることに初めて気がついた。
 何の気配も、何の音もしなかった。
 雪の上でこちらを微動だにせず見つめるその静かな両眼に、私は目を見開いた。
 ――オガタ。

 あの一対の黒い瞳が、時を越えてそこに在るような気がした。

 私は浮かされたような思いで荷を探り、慌ててスケッチのための道具を取り出した。
 しかし目を上げた時、既にそこにあったはずの山猫の姿は掻き消えていた。

 姿は目に焼き付いていた。
 私は家に戻ると、憑かれたように何枚も何枚もあの美しい山猫の姿をスケッチした。

 やがて、私はとうとう一枚の絵を描き上げた。
 終ぞ納得のいく絵が描けずにいた、あの男の死についての絵だった。
 欠けていたものがぴたりと嵌まった感覚があった。
 そこには視界の反映ではなく、彼自身の存在が、ひとつの形象としてあった。

 完成したその日から、私はいつも、その絵と共に生きた。

 答えとしてのその絵を完成させてからというもの、私の絵自体にも変化があった。
 写実から抽象へ。その瞬間の光景だけでなく、その瞬間にそこにあった存在そのものをカンバスに、額縁の中にあらわす事。
 そうした絵ばかりを描くようになって、私の絵に対する評価も次第に、しかし飛躍的に上がっていった。
 大きな戦争もあったが、時勢が比較的安定した頃には、絵を一枚描くたびに高値がついた。
 暮らしぶりは安定した。
 だが何もかも大したことではなかった。
 私には、あの絵があればよかった。

 思えば私の心はいつも他者へと齎す死、そして自己へと齎された死に向かっていた。
 他人の生死を支配すること。そしてたった一人、同じ支配者の格を持つ相手が己を支配したこと。
 絶対的な結果があらわれる瞬間だけが真実だった。その一瞬のために他の時間のすべてがある。生きるとは私にとってそういうものだった。時を止めることが生き甲斐なのだ。殺すにしろ、絵を描くにしろ。
 もう変化しない凍った時間は、そこが終点、完成形だ。誰にも奪えない、私だけの獲物だ。
 私は彼の死を描けた。私の手でその瞬間の結晶を創った。
 彼の死と、私の狙撃手としての死を、私は私のものに出来たのだ。

 幸福だった。あとは結びに、あの絵を見つめたまま死ねたなら素晴らしい。
 あの絵の前で、あの絵を眺めて死ねば。彼が、私という存在を殺す代わりとなってくれるだろう。

 誰も居ないはずの家だった。長い眠りの後、開いた視界の中、室内に架けられた様々な一人の男の絵を眺めるように立っている後ろ姿があった。
 私は驚愕した。撫でつけた黒髪、仄見える横顔に走る傷跡。一瞬で結びつく記憶。
 そして私の目覚めに気付いたように振り返った男は、寸分違わず、双眼鏡越しと死体でしか見た事のない男――〝あの〟オガタ、だった。
 馬鹿な、と思う。
 あまりにも、鮮明すぎる夢だった。初めて見るはずの、生きてすぐそばにいるオガタは、しかしまるで本当にそこに居るかのように生々しかった。あの頃の、若く美しい姿のままで。

 オガタは食い入るように見つめたまま動けない私の枕元まで近寄って来ると、寝台の頭側にある飾り板に圧し掛かり、私の顔を覗き込んで開口一番こう言った。
「絶対に仕留めたと思ったのに」
 初めて耳にするオガタの声は、低く掠れたような音で、ひどく彼に似つかわしい響きをしていた。
 しかしやはり都合のいい夢だと思う。彼は日本人の筈だが、私にも分かる流暢なロシア語を喋っていた。
「だが狙撃手としては死んだのかな。じゃないとお前なら、俺の足じゃなくて頭を撃てたはずだろう」
 その通りだった。オガタの放った銃弾はギリギリ頭を逸れて私の肩を貫通し、銃を構えることを不可能にした。
 私は、オガタが私の銃の腕を信じてくれていたことが嬉しかった。
 オガタはその感情を読んだように目を細めて言う。
「お前のことは俺には全部わかる」
 私は笑って頷いた。私にも、オガタのことなら全てわかっていた。そう思えた。
 オガタは頬杖をついてこうも言った。
「俺がお前でも、追いかけて決着をつけようとしただろうな」
 ああ、なんていい夢だろう。

 私は壁にかけてある筈の、あの絵に視線を向けた。
 額縁の中に絵はなかった。代わりに黒く、どこかへと通じる穴がぽっかりと口を開けている。
「あの絵の裏から来たんだ」
 今だけだ。別に無くなってないから安心していいぜ。
 何でもないことのように言うオガタの言葉に、しかし私は驚かなかった。何となくそんな気がしていた。
 あれは彼の絵だ。彼そのものの絵だから。

 ふと気づく。彼はもしかしたら、会いに来たのだろうか。私の死に際に。

 素直に健闘を称えるような口調でオガタが言う。
「あの物見塔の上は惜しかったな。邪魔が入らなければお前の勝ちだった」
 だがあの場で撃ち損じたおかげで、真正面から撃ち合えた。
 向こうでお前も銃を構えていると知りながら銃を構える、あの一瞬のために、私の人生があった。
「俺たちの勝負はたった一発、一瞬で決まる」
 そうだ。一瞬だった。私の人生を、お前が変えるのにはそれで十分だった。

 オガタの手が伸ばされ、私の頬の傷跡に触れた。労わりではなく、戦果を確かめるような手つきだった。
 私はその手をとり、人差し指に口づけた。この世で最も尊い指だった。
 ふと思い出したように、愉快そうな声でオガタが囁く。
「悪くないな。あの絵」

 私は誇らしく、笑みを浮かべた。
 愛は神のようにあやふやなものだ。
 だが、この肉体が滅びても私の愛は形をとって残り続ける。そこに神を見た私の眼差しをあらわして。

「……オガタ」
 私は知って以来、心のうちで唱えなかった日のない彼の名を呼んだ。
 実際は明確な音韻を成さない不明瞭な音にしかならなかったが、それが呼び声であることは伝わったのだろう、オガタは目を丸くして私を見下ろす。
 その透き通るような若々しい手をとって、私は彼の掌に、老いた指先で自分の名を一文字ずつ書いた。
 私のためにそう在るかのようにロシア語を話す彼だから、文字によって、その正しい音が伝わることを願った。
 果たして彼は、指がその言葉を掌の上に綴り終わるのをじっと見届けると、確かめるように私の耳元に口を寄せて――唱えた。
「――ヴァシリ」
 彼の唇で、彼の声で呼ばれたその名。私は目を細める。
 私の反応を見てオガタも笑う。静かで、満足げな微笑みだった。
「ヴァシリ」
 低く喉を鳴らすような甘い声音。繰り返し私の名を呼ぶ。
 至上の幸福に、ゆっくりと体の力が抜け、瞼が下りていく。
「……ヴァシリ」
 慰撫するように、彼の手がやさしく私の頭を撫でた。

 そうだ。覚えていてほしい。
 この世で最も、お前を愛した者の名だ。

 

 カァン、と渇いた音を立ててハンマーが打ち鳴らされた。
 拍手喝采で祝福された買い主は、ホッとしたように喜色満面の笑みを浮かべていた。
 日本のIT企業が、日本円にして三億で、死没した有名画家の秘蔵絵画『山猫の死』を落札した……その一報は日本国内でも大々的に取り上げられ、画家自身の逸話と共に大きな話題を呼んだ。
 購入した企業は一般公開にも前向きで、『山猫の死』の展示を、予定されている全国規模の展覧会の目玉に据えるつもりだと発表した。
 ――三億円。

「大したもんだな。……ヴァシリ」
 髪をかき上げて、尾形は呟いた。
 少し呆れたような口調。それでもその表情は、降参するように綻んでいる。

 後世までこの絵は残るだろう、と評された。
 『山猫の死』を見るために大勢の人が訪れ、足を止め、見入った。
 時を止めて永遠に眠り続けるその絵の裏で、尾形は腹のくちくなった猫のように目を細めて、ひとつ、大きな欠伸をした。

<終>