中天から外れた太陽が暖かさを失うのは早い。この時期は特にそうだ。午前中から昼過ぎまでの時間を過ぎると、洗濯物を干したところで碌に乾かず、それどころか夜になれば湿り気を帯びてくる。
わたしは用事から帰ってくると、忘れないうちに家の裏へ干していた洗濯物を取り込みに行った。すると、見知らぬ男が干した洗濯物を盗もうとしていた。
驚いて、声が出るより先にまじまじとその姿に見入る。
一目見て、この辺りの人間ではないと思った。ニヴフの者とも違う、独特の雰囲気がある。日本人だろうか、とわたしはふと思った。
右目を負傷しているのか、真新しい包帯が顔の半分を覆っている。わたしは男から見て右の方に立っているため、視界に入っていないのだろう。
ひどく衰弱している様子だった。血の気が無く、洗濯物を掴む指先は血が通わず紫がかってきている。それもその筈で、大きな外套こそ羽織っているが、そこから突き出された腕は裸だった。薄い布切れのような着衣は見えるが、ほぼ何も着ていないようなものだ。この寒空の下を過ごす格好では間違いなくあり得ない。
わたしはふと、その特徴的な布切れが、おそらく病院の手術着であるらしいことに気が付いた。亡くなる前に妻が手術した際、似たものを身に着けていた。
正式な退院の手続きをとらず、治療中に脱け出してきたのだろうか。凍え死ぬ危険を冒してまで。手負いの身でそこまでしなければならない事情――そこまで考えて、わたしは彼の特異な雰囲気に合致する、ひとつの言葉を連想した。
軍人。
――脱走兵?
かじかむ手で洗濯物を外し終えた男は、気配でわたしに気がついたようだった。見開いた片方の目が、わたしを映す。
大きな黒い目だ。顔つきは幼さを残しており、まだ年若い青年と見えた。
こちらを警戒し、後退りながら抱えた洗濯物を離すまいとする姿に、わたしはひどく憐れみを誘われる。
彼が盗ろうとしていたのは金品でも、近くに置かれている斧や鋸でもなく、なんの値打ちもない草臥れた衣服一着だ。寒さを凌ぐためだけの。
わたしは、言葉は通じなくとも口調と仕草で伝わるのではないかと、腕で家の中を示し声を掛けた。
「中に入って暖まりなさい。その服はくれてやっても構わないが、どの道そのままでは凍えてしまう」
敵意がないことは伝わったのか、彼は目を丸くして立ち尽くした。
わたしが手招きし、先に立って戸口の方まで歩き始めるが、ついてくる素振りは見せない。
来ないかもしれない。そう思いながら玄関を開け、顔を出して彼の方を再度見てみれば、まだその場でじっとこちらを見つめていた。
もう一度手招きすると、彼は力なく足を踏み出し、フラフラとわたしの方に歩み寄ってきた。
ペチカの上は、この家でもっとも暖かい場所だ。
普段はわたしの居場所だが、わたしはその場所を彼に譲ってやった。彼は勧められるがまま、大人しく身を落ち着けると、限界を迎えたのか力なく丸くなった。
しばらくの間、彼は本当に懇々と眠るだけだった。家に入った時、通じたかは分からないが一応用足しの場所と飲み水の場所は指さして教えておいた。わたしが不在の間に使用していたかもしれないが、とにかくわたしが彼がペチカの上から動いている所を見たのは、彼を招き入れた次の日の夕暮れだった。
僅かに目を離している間に、ペチカの上から彼の姿が無くなっていたので私は驚いた。外に出てみると、果たして彼はすぐ家を出た場所にぽつんと立っていた。視線の先を見てわたしは納得した。
「馬かね?」
彼を招き入れた後、家のすぐそばに一頭の馬が繋がれていることには気がついていた。
振り向いてこちらを見る彼に、わたしは言葉をゆっくり区切りながら馬と彼とを指さして話しかける。
「あれは、君の、馬だろう? 餌はやっておいたよ」
交互に指さされた彼は、コクリと頷いた。肯定なのか礼なのかは分からないが、馬に関しては心配ないということは伝わったようだ。
「起き上がれるようになったなら、何か食べていきなさい。何か腹に入れなくては、良くなるものも良くならない」
背を押して中に促すと、彼は大人しく従った。
再びペチカの上に座り、ぼんやりしている彼を横目に食事の支度をする。
彼にわたしの服は少し大きすぎるようだ。しかし多少布が余っていた方が、今はかえって温かくて良いかもしれない。
食事の支度をしながら、相手が理解するかなどお構いなしに、半ば独り言のようにわたしは喋った。
「起きてくれてよかった。あまりにも動かないから、医者を呼ばなければならないかとも思ったが、しかしとりあえず様子を見ることにしたんだ。見たところ君は軍人さんなのではないかと思ってね。立ち振る舞いでわかるよ。わたしの孫も兵士だったんだ。ちょうど、同じぐらいの歳だった」
彼は勝手に話すわたしに困惑を見せることもなく、聞いているのかいないのか、何の反応も示さない。だからこそ好きに話しかけることが出来た。わたしは少し浮かれていた。自分以外の人間がこの家にいるのは、本当に久しぶりのことだった。
男やもめの有り合わせで、用意出来るのはボルシチとパンとチーズ、そんなものだ。テーブルに並べ、椅子を引いて手招く。
「食べなさい。口に合うかわからないが」
青い顔をした彼は、少し間をおいて、のろのろとペチカから降りてきた。
椅子に座るのを見届け、わたしももう一脚の椅子に座る。
わたしが先に一口食べ、動かない彼を「さあ」と重ねて促すと、ようやく彼もボルシチに口をつけた。
何も言わなかったが、それから黙々と手を止めずに食べだした様子を見ると、不味くはなかったらしい。あるいは口に物を入れて、初めて空腹を思い出したのか。
頬を膨らませて食べる様子は子供のようで、微笑ましく思う。
「しばらく居るといい」
わたしはパンをちぎりながら、やはり独り言のように言った。
「まだ当分寒い日は続くのだ。他に誰もいなくても、どうせわたしは毎日ペチカに火を入れるし、毎日食事を用意する。君がいてもいなくてもそうするのだから、遠慮することはない」
かさかさに渇いて皺の寄ったわたしの手は厚くくすんでいて、この家や家具を構成する古木と同化しているかのようだ。対して食事によっていくらか血色の戻った彼の皮膚は今や透き通るようで、新芽のような鮮やかな生命力に満ちている。すべてが薄暗く沈んだこの家で、彼の周りだけがぼうっと光っているように見えた。
「妻と死別してからは孫だけがしょっちゅうこの家を訪ねてくれていたが、その孫も日露戦争で戦死してしまった。わたし一人で住むにはこの家は広すぎるが、かといってわたしを生かしてくれるものはこの家以外にない。わたしがこの家で生きているというより、この家を生かすためにわたしは動いているようなものだ。そんな調子だから、大したもてなしは出来ないが」
彼は一人で喋るわたしをじっと見ていたが、やはり分かろうとする様子も見せなければ、何かを伝えようとする様子も見せなかった。
ただ食事を終えると再びペチカの上に戻った様子を見ると、すぐに去るつもりは彼にも無いようだったので、わたしは少し安心した。
彼はその後、熱を出したようだった。気がついたのは翌朝だ。朝食を食べるかと思い覗いたら、冷や汗を浮かべて震えていた。右目に両手を当てて丸くなったまま、呻き声ひとつ立てないで苦痛に耐えている。
きっと彼が手術したのは右目の傷だったのだろう。栄養を摂り、熱を生む体力を取り戻したことで、生々しい傷は人心地を取り戻した彼をかえって苛んでいるようだった。
だが栄養を摂らなければ衰弱は免れない。出口は無いのだ。たとえ苦しみを引き延ばすために得るような糧であろうとも、口にしなければならない。
死ぬまでは生きなければならないのだ。苦しみと共に。
彼の右目はおそらく、もう見えないのだろう。
余った毛布をすべてかけてやって、飲み水を常にそばに置いておいた。喉が渇くのか、水は飲んでいるようだった。
しかし食欲は無いらしく、晩飯時になって声をかけてみたが、彼は顔を背けて丸くなることで拒否を示した。
毛布で覆われた塊を横目にひとりの食事を負え、日課の本を読み、床に就く時間が近づく。
わたしは新しく水を汲んでやり、そばに置くついでに彼の肩へと触れた。思ったより高熱ではないようだったが、強張る体には痛みによる疲弊が感じられた。
すると珍しく、大きな黒い目がわたしを振り向いて見返した。
まっすぐな睫毛にけぶる眼差しはひどく幼く見えて、そこに滲む苦しみを殊のほか哀れに思う。
わたしは祈りの言葉を口にした。
「主よ、憐れみたまえ」
年若い彼の苦しみを。異邦の地で、ひとり震える孤独な魂を。
その時、吐息のような掠れた低い声が、わたしとわたしの家の静かな空気のあいだに、異質な音として響き渡った。
「……俺はあんたの言う通り兵士だ。大日本帝国陸軍の人間だ」
流暢なロシア語だった。
初めて耳にする彼の言葉が理解できる音だったことを純粋に驚くわたしに、彼は続けた。
「日露戦争では大勢のロシア兵を殺した。あんたの孫を殺したのは、俺かもしれないんだぜ」
その言葉を言うあいだ、彼の目が逸らされることはなかった。
わたしは、言葉が通じていた驚きや、言われた言葉の意味そのものよりも、今までじっとわたしの話を聞いて世話を受けていた彼が初めて口にした言葉がそれであったことに、胸を衝かれるような気持ちになった。
施しを与えられるがまま、黙っていれば損は無いものを。あえて突き放すようなその言葉は、彼の自身に対する潔癖さであり、頑なさであり、情けをかけるわたしへの憐れみでもあった。
「……そんな考え方をするもんじゃない」
わたしは絞り出すようにそう言って、肩に置いていた手を持ち上げ、彼の頭をそっと撫でた。
「他人が始めたことの責を、君が負う必要はない」
黒々とした髪は艶やかだった。汗ばむ肌は眩しいほどに瑞々しい。
まだほんの若者だ。
わたしは孫を思い出す。彼の明るい髪もよく光を弾いて、赤みがかった頬とともに、いつも艶々と輝いていた。
帰ったらまた会いに行くよと、最後に手紙をくれた。
「孫もきっと戦場で誰かを傷付け、命を奪ったかもしれない」わたしは祈るように囁く。「それでも孫は今、天国にいるのだと……わたしは信じているよ」
彼はわたしの顔をじっと見つめた後、ゆっくりと瞼を閉じた。
潜めた息がやがて穏やかな寝息に変わるまで、わたしはしばらく見守っていた。
「美味しいかね」
言葉が通じると分かったわたしは、再び起き上がって食事が出来るようになった彼に、改めて返事を求めてみた。
彼はもぐもぐと口を動かしながら、こちらを見つめ返しはするものの答えを返す気は無いらしい。
小憎らしいが頬を膨らませて食べる顔にはやはりどこか愛嬌があり、笑って許してしまう。
だいぶ傷の痛みもマシになってきているらしく、彼は明るい内にどこか外を出歩いたり、この辺りの土地についてわたしに質問したりするようになった。
わたしも彼についての質問をいくつか投げかけ、少しだけ彼のことを知った。
家族は一人もいないこと。それでも行先があること。何か、叶えたい目的があるのだということ。
わたしは彼に滋養をつけさせようと、魚を多めに入れたボルシチを作った。
晩餐の席でその旨を伝え反応を伺うと、彼はしばらく黙々と食べた後に、ふと口元を緩めた。
そして告げられた耳慣れない言葉に、わたしは訝しく聞き返す。
「ヒンナ?」
彼はこくりと頷き、もう一度その不思議な言葉を口にして、残りのボルシチを平らげた。
フクースナ、ではないが、反応からしてどうやらそれなりにお気に召したらしい。
わたしはあえて通じない言葉で答える彼の素直ではない反応に笑った。何より、初めて見た彼の笑みはどこか自嘲的で、その表情が何だかとても彼らしいように思えた。
翌日わたしが用事を済ませて家に戻ったとき、家のそばに繋がれていた馬が居なくなっていることに気がついた。
中に入る前に、わたしは既に察していた。もうあの家の中に彼は居ないのだと。
玄関を開け、背負ってきた荷を下ろす。案の定、ペチカの上の毛布は測ったようにきちんと畳んで重ねて置いてあった。
しかし家の中には、もうひとつ目を引く変化があった。テーブルの上に、両手で抱えるほどの棒鱈が置いてあったのだ。
わたしは思わず破顔した。
彼は身ひとつの他に、何も持っていなかった。そのまま居なくなっても良かったものを、わざわざ何処から調達してきたのだろう?
ささやかなお別れのしるしに笑みをこぼしながら、わたしはそのひとつを手にとる。
きっと煮物にすれば美味いだろう。せっかくだから、彼も食べて行けばよかったのにと思う。
そして、寂しくなった。この家の一番暖かい場所には、もうずっと長いこと、丸くなった影が在った気がした。
彼は一体どんな気持ちでお礼の品を置いて行ったのだろう。わたしは彼にとって、どのような存在であれたのだろうか。もう居なくなってしまった彼と、無性にもう一度話がしたかった。
ふと思い立って戸棚を調べるが、金品の類には一切手をつけられていない。わたしは後悔した。居る間に、いくらか持たせてやればよかったと思う。
彼はやはり日本へ帰るのだろうか。無事に、目的地へ辿り着けるのだろうか。そこは彼にとって居心地のいい場所だろうか?
あの傷は、まだ当分のあいだ痛むだろう。早く痛くなくなるといい。
なるべく暖かな、もっといい服を着られるといい。あんな草臥れた老人の服ではなく。
滋養のあるものをたくさん食べられるといい。思わず食事に感謝したくなるような。
彼の居なくなったペチカの上に座り、わたしは彼の行き先に幸福を祈る。
暖かいはずの場所は、今はとても寒々しく感じられた。
