「尾形。ヒンナか?」
「なんだ。ヒンナって」
「食事に感謝する言葉だ」
「俺が?」
「そうだ。お前がこれをありがたい食べ物だと思い感謝することだ」
「それを言ってどうなる?」
「どうも何もない。お前が『うまい、ありがたい』と思っていることが伝わる」
「誰に?」
「お前以外の者にだ」
「それに、何の意味がある?」
「だから、言っただろう。お前がうまい、ありがたいと思っていることが伝わるんだ」
「だから。それが何になるんだ」
「変なことを聞くやつだな。うまいことは良いことだ。だから、皆同じようにうまいと思っているのが分かるのは良いことだ。お前は特に何を考えているのか分かりづらいから、言わなければ分からない。ヒンナか? 尾形」
「……」
「まったく。お前はかわいくないな」
呆れたように言いながら、サッと掌を顔の前に翳される。
間近のそれに、反射的に鼻面を上げる。
生きているものの匂いがした。
「彼女にあなたが心を開く度に、私にもあなたがよく見えるようになっていきました」
懐かしむように勇作が笑う。
「それまでは、夢でしかお会い出来なかった。想ってくださらない限りは、現れられないもののようです。彼らの言うカムイという存在と似ていますね。……彼女は、私を思い出させるような点があったのですか?」
「……似ている気がしました。立場も、雰囲気も……妙に押しが強いところも」
「そうでしょうか。自分ではわかりませんね」
照れたように笑う勇作に、尾形も微かに笑った。勇作が笑みを深くする。
「やっと目が合いました」万感こもるといった声が呟いた。「あなたの姿を見つめながら、ずっと待っていました。またあなたとこうして、目を合わせて、お話ができるのを」
よく光の入る目からまっすぐに注がれる眼差しに、尾形はぼやく。
「どちらも潰れたのに、結局見えてしまうのですね」
勇作は苦笑した。
「からだから離れれば、からだの状態は関わりがなくなりますから」
「そういうものですか」
「特に兄さまは、盲になるのと同時にからだを失いましたので。死の瞬間の状態ではなく、生きて在った間の記憶すべてが霊魂の在り方を決めるのです。あなたの生きた記憶には、ずっと光がありましたから」
「お詳しいのですね」
「先達ですからね。こうなってみて、分かることが沢山ありました。主に、兄さまの事ですが」
「俺の?」
「はい。兄さまの中を通して、私は兄さまの傍にいました。あなたにしか分からないことが、そして時にはあなたにも分かっていらっしゃらないことが、分かるようになりました」
「貴方は俺の罪悪感が作り出した幻なのでしょうか?」
「罪悪感が兄さまに私を強く想わせたという意味では、そうだとも言えます。でも、私は私としてあなたを見ていました。今もこうして、私はあなたを見つめている」
「そういう幻なのでは? 言葉ではどうとでも言える」
「私が幻ではないことを証明できないように、私が幻であることもまた証明のできないことです。信じて頂くほかはありません。ですが、信じようと信じまいと、私はここに居るでしょう? 兄さまの前に」
「……はい。遺憾ながら」
「ふふふ。規律が乱れますからと、私を兵営で嗜めていた時のお顔をしておられる。あの頃も一応、兄さまが少し迷惑そうにしていることぐらいは、私にも分かっていたのですよ」
「そうなのでしょうね。たまに分かっていて知らんぷりしていると、俺にも分かる時がありました」
「でもそれを兄さまはご指摘なさらなかった。私はそれに甘えて、あなたに会いに来ていました。あなたのことが知りたかった。あなたはご自分のことを仰らない方だったから」
「貴方はどうでもいいような質問ばかりしていた」
「兄さまのことなら何でも知りたかった。声を聞くだけでも良かったのです」
「あまり喋った記憶はありません」
「寡黙な方でした。しかし思慮深い方であることは話せばすぐに分かりました」
「よくそういう歯の浮くような褒め言葉を口にされる度、俺は返答に困りました」
「困って目を逸らすお顔が好きでした」
「趣味が悪いですね」
「しかし本心でした。あなたと居ると本当に楽しかった」
「これは俺が言わせているのですか?」
「そう思いますか?」
勇作は優しい口調で問いかけ、尾形の手を握った。
「これが本当の気持ちだと、本当にわかりませんか?」
じっと勇作の目を見る。その眼差しを。
尾形は諦めたような穏やかな声で言った。
「……いいえ。分かります」
勇作は微笑んだ。尾形がここに居るように、勇作もそこに居ることが、今の尾形には理屈抜きに実感できた。
生きている間よりも確かに。
「兄さまがご自分を語る言葉を持たなかったのは、ずっとそれを受け取ってくれる人が周りに居なかったからなのですね」
「ええ。そうなんでしょうな」
「あなたのお母様はあなたの言葉を受け取らなかった」
「俺もおっ母の言うことは分かりませんでした」
「私は何もわかっていませんでした。あなたのお母様のこと、父上のこと、故郷で、軍で、あなたが受けてきた数々の仕打ち」
「分かって欲しくもありませんでした」
「それを聞けていれば、私はもう少し違う関わり方を兄さまに出来たかもしれません。でも兄さまはご自分を語る術を持たず、そして私も結局、何も出来はしなかったでしょう」
「でも、貴方は俺が死ぬことを肯定してくれました」
尾形は自分の手を握る勇作の手をほどき、両手で包み直した。あの日剣を握らせた仕草をなぞって。
「貴方は俺のために罪悪感を負って、罪を犯してくれたのですね」
事実が逃げないように、ゆっくりと囁く。勇作の顔が切なげに歪んだ。
「……私はあなたの罪悪感によってあなたの内に降り、初めて己の罪を知りました。私はあなたを何ひとつ知らず、追い詰めていた者のひとりだった。……私こそ問いたいのです。兄さまは……私を呼び、私を畏れ、私を求めてくれたあなたは……死んでしまった私に都合のいい、ゆめまぼろしではないのですか」
尾形は笑った。目を細めて問う。
「分かりませんか。何もかも、信じたくないほどに本当です。貴方のおかげで何もかも台無しだ」
勇作の目から涙が落ちる。
「分かります……分かるんです。私が本当にあなたを愛していたことを、あなたは分かってくれていた」
尾形は微笑んで頷いた。
「はい」
「私は、あなたの欲しいものを、あげられたのでしょうか」
「はい」
晴れやかに笑う尾形に、勇作は滂沱のごとく涙を溢れさせたまま、ゆっくりと腕を伸ばし、尾形を抱きしめた。
あの日のようにすっぽりと覆われる抱擁の中で、尾形は初めて、その背を抱き返してみた。
これもあの日の再現に過ぎないのか。疑いようにも、手を回した背中は想像よりずっと広い。
「兄さま……」
「はい」
「私を愛してくれて、ありがとうございます」
一筋涙がこぼれた。こぼれた涙は勇作の肩に沁み込んでいった。
「言いたかったことがあります」肩口に顔を埋めて尾形は言う。
「はい」
「貴方を撃って、すみませんでした」
勇作は短く、朗らかな声を上げて笑った。
「いいんですよ」
抱きしめる腕が強まる。
「私は兄さまを愛していますから」
優しい声が言った。大好きな声だった。
